2019年03月03日

ムーブメントと組織(本文p337〜382より)

T.はじめに、ムーブメントとは
19世紀の宣教的事業は、効果的なムーブメントについて、大切な示唆を与えてくれている。世紀の初めに多くの新しい教会が、西欧と西欧以外に西欧式の教会つくった。が、そこに不健康な、依存体質をつくってしまったのだ。彼らは健全な教義を持ち、地域の人々の中から、聖職者やリーダーを選んだが、経済的なサポートの仕方で間違いを犯した。結果的に彼らは、西欧の宣教団のお金に漠然と依頼し続けた。

ハドソン・テーラーの開拓した宣教国のアプローチは違っていた。初めから自己資金で運営する教会開拓を考えた。ゴールは、外国援助という人為的な維持装置のない、自分で成長できる集団をつくること。それは教会が国産のリーダーを自ら生み出すということも含むのだが、言葉を替えると、資金についてネも、リーダーについても、外からの援助なしでやっていけるダイナミズムを備えた教会を求めたということだ。彼らは、教会が、健全であってほしいだけでなく、生命力と躍動感にあふれたものであってほしいと考えた。それは自発的な燃焼のイメージを引き起こす。つまり外からの着火、点火を必要としない燃焼だ。動的なムーブメントを持つ教会が、自らの文化や都市に対するビジョンを実現するために、自ら変換し、アイデアとリーダーシップと資金を生み出すのだ。つまり宣教学の言葉で言うと、そのような教会は、自己宣伝、自己統治、自己援助をしている、再生可能な教会なのだ。その再生可能で、持続可能な教会群が一致したビジョンを保つ限り、そのムーブメントは流れとなり、安定的に成長し、それも急上昇することもありうるのだ。

逆にダイナミックなムーブメントのない教会は、生命維持装置の付いた病人のようだ。それが生き残るためには(1)教団組織か宣教団組織があって、資金援助している。(2)地域住民のコミュニティーセンターとなる建物があって、実質的な収入源を持つ。(3)ある教会にはよどんだ大きな構造があって、その中に仕事漬けの少数の中心的な人たちがいる。つまり、一握りの人々が過度の時間とお金を捧げ、淀んだか、下降気味の教会を支えているのだ。これらの人々は、個人的には活力あるクリスチャンたちだが、その活力を教会の他の人に広げることができないのか、とにかく頑張り屋で、教会の根っこの部分で犠牲的忠誠心を発揮している。がこの解決は一時的だ。この数人の人々の犠牲的貢献には再生産の力はなく、その教会は結果的に死んでしまう。

U.ムーブメントと組織をどう対比させるか
ティムケラーは、単純にムーブメントはよい、組織はダメと言うつもりはない。教会には、組織的性格と動的なムーブメントの両方が必要だ。組織はルールや方策という安定的な行動パターンを持つ。そして変化は遅くなり、人々の選択や行動を制限したり、形作ったりする。しかしこの意識的な選択の制限はしばしば健全性を生む。スーパーマーケットのシステムはいつも同じところに並び、同じところで支払うことを強いるが、組織化は、このように多くの人の毎日の買い物を可能にしている。

まず「組織」を定義すると、組織とは、確定された信頼できるシステムと、「何かを達成するためには何をなすべきか」という枠を提供する上で必要であり、助けとなるものだ。組織を軽視する文化は、骨格のない体、あるいは文法のない言語のようなものだ。組織は生活に秩序をもたらし、また人間が繁栄し、文化的な生活をするための条件を確定する。

一方で「ムーブメント」は、もっと個人の好みに関連しており、将来のリアリティーを引き出す。ムーブメントは、ビジョン、犠牲、統一のある柔軟性、自発性の4つのkey wordから成る。
ムーブメントについてさらに詳しく述べると次の4点だ。

1)ムーブメントはやむにやまれぬビジョンが際立っている。
ビジョンは、魅力的な、強烈な、将来に対するはっきりした青写真から成り立っており、それは、ムーブメントとそのリーダーたちが求めているものだ。このビジョンの中身は、他の人がすぐにわかるように表現されていなければならない。あまりに深遠で一握りの人しか言葉にできないものであってはいけない。このビジョンの中身は、他の人もすぐに学び、自分のコミュニティーに持ち帰り、適用できるものでなければならない。例えば、アルコール中毒から脱却するA.Aの「12ステップグループ」は、多くの本に書かれて来た。それゆえにこのグループによって自分の生活を変えたいと願う人は、いつでもその本を読んでスタートできた。彼らは誰の許可もカネも不要で、素晴らしいトレーニングを多くの方法で受けることができた。もう一つの、あまり気軽には語れない例だが、アルカイダがなぜあれほど影響力を持ったのかと言うと、自分の世界観をクリアーに、広く、拡散できたからだ。人々はそれを吸収し、勉強し、多くのテロリスト集団をつくった。ある時は、アルカイダのトレーニングキャンプに行って効率よく学んだが、後々彼らはローカルのやり方で進めることを任された。これらのA.Aやアルカイダは中央集権的組織でなく、活気ある、成長し続けるムーブメントなのだ。これが、彼らが質素な資金でも効率よく成長して行った理由だ。ビジョンを成功させる秘訣は、シンプルさと、それが応用しやすい形で手に入るということだとわかる。

2)ムーブメントにおいては、ビジョンを統一させることが力を持つ。それは犠牲的なコミットメントや内的な報酬という文化へ至らせる。
 個人は、ビジョンを自分の利益や楽しさより大切にする。ムーブメントの初期において、多くの場合は報酬無しで働き、倒産の恐怖の中で生活しているものだ。ゴールが実現することが彼らの報酬であり、ある人はこれを「内なる報酬」と呼ぶ。つまり内的、個人的な、自分が「役に立っている」と言う思いから来る達成感だ。あなたの組織の中に、犠牲の文化があるかどうかを調べること以上に、あなたの教会がダイナミックなムーブメントを持っているかどうかを知るわかりやすい方法はない。もし教会のトップリーダーだけが犠牲的精神を持っているなら、あなたの教会はムーブメントの文化を持ち合わせていない。

 3)ムーブメントは他の組織や人々に対する柔軟性というスタンスに性格づけられている。
 ムーブメントは、何が(what)を、どう(how)や、誰によって(who)より大切にする。ビジョンは犠牲を促し、メンバーたちは、そのビジョンを分かちあえる人とならだれとでも仲間になり、協力する。組織は逆に、やり方、手順、許可を大切にする。彼らは、それに背くなら、強く求めてきた結果であっても、あえて達成しようとしないことがある。ムーブメントの中の柔軟性というスピリットは、一致を生む。組織は、うちわにおいてもそのような一致を生まない。彼らは自分の利益を全体の善より優先する。組織は組織内でも統一感がなく、別組織に対しては敵意さえ持つことがある。

 4)ムーブメントは、新しいアイデアやリーダーを自発的に生み出し、内部から成長する。
組織は長期的な耐久性を持ち、安定しているが、リスクを伴う新しいアイデアに抵抗する。しかしムーブメントは喜んで新しいリスクに挑む。メンバーたちはすでにその仕事のために犠牲を払っているからだ。とにかくビジョンの達成が最大の目標なのである。  

V.組織とムーブメントはどう収束するのか
若いリーダーたちはムーブメントに興奮し、逆に組織的な教会について、盲目だの、いのちがないだのいろいろ批判する。ムーブメントが組織に落ち着く流れはこうだ。ビジョンは戦略となり、役割は義務となり、チームは構造となり、ネットワークは組織となり、評価は報酬となる。しかしこの両者を硬直的に一本の線で結びつけてしまうのは間違いだ。また対立構造でもない。現実はもっと複雑だ。第一に新しい教会やミニストリーは、非公式、非成文、非中央集権を保つべく必死で努力するが、実際上、組織化は免れない。新しい方策や、運営面の構造や、価値や信条を選んだ途端、それを将来に向けて運用し、人々の役割を形にすると、直ぐにその価値や信条は組織化し始めるのだ。

またある程度の組織化は望ましいとも言える。ムーブメントの各メンバーのビジョンを統一することはムーブメントをダイナミックにするうえで、大切な作業だ。かつこの統一ビジョンはしょっちゅう変更させてはいけない。さもなくば、ムーブメントはカオスと化し、成長を妨げることになる。逆説的だがこれは、ビジョンにはある程度の成文化やコントロールが必要ということだ。言い換えれば、ムーブメントのダイナミックなエンジンを維持するためには、組織の要素を導入する必要がある。

更に付け加えると、ムーブメントは、メンバーの犠牲的なコミットメントに大きく依存していることを覚えておかなければならない。特にそのスタート段階においては。このスタートモードの時は、メンバーは貯金を崩しても物事を進めようとする。しかしこのやり方は持続可能ではない。言葉を替えると、ムーブメントは結果的に、発生するコストをカバーする収入を生み出すように、持続可能なビジネスモデルに落とし込んでいく必要がある。もしこれに失敗すると、大切な人々を燃え尽きさせ、ビジョンに向けての歩みを失敗に終わらせることになる。

強くてダイナミックなムーブメントは、自由に走る生き物と、弟子として訓練された組織の中間(センター)の微妙な空間を埋めるものだ。権威、伝統、信仰の一致や、品質管理などの組織的性格を拒否するなら、そのムーブメントはバラバラになり、消えて無くなるだろう。が、組織化に向かおうとする流れに抵抗することを忘れたムーブメントは、活力や効力を失っていく。ムーブメントの船長はこの危険な2つの海の隙間を航行していくのである。

W.組織された生き物としての教会
組織とムーブメントの違いを述べるにあたって、私たちの教会は組織であることをまず認める必要がある。しかし、内的にはムーブメントでもなければならない。では、組織とムーブメントの確かな聖書的バランスはあるのか?ティムケラーは、あると信じる。聖書は、組織と生き物の両方を教会の性質として予告している。というよりも、「組織された生き物」と表現している。使徒の働きでは、教会員や弟子の数が増えることを、「成長」と、生物的な言葉で表現し(4:4)、それは「神のことば」(6:7)、「福音」(コロサイ1:6)についても同じ言葉が使われている。聖書のこれらのことばは、教会内に、有機的で自己宣伝的、かつダイナミックな力があることを示唆している。使徒の働きから、それが自分で働いていること、ほとんど組織的なサポートはないこと、またマネージャーやリーダーたちの命令やコントロールもなかったことが分かる。

そしてそれらは、自発的に機能していたにもかかわらず、教会ができるとすぐに、パウロは、自分が町を離れる前に、注意深く長老を立て、権威あるリーダーを立てた(使徒14:23)。そこで我々は、なぜパウロが、多くの回心者の中から、それほど早くリーダーシップのある人を選ぶことができたのかと聞きたくなる。逆に、まず2−3年は権威的な組織をつくらず、ただ互いに会って学んで、愛し仕え合うことで様子を見ることはできなかったのか、その方がよかったのではないかと。パウロの行動が示すのは、この「自発的かつダイナミックに成長している教会に、権威の伴った組織を与える」という作業がどれほど大切かということだ。最初から教会は、組織とムーブメントだった。この教会の「2つの性質」は、聖霊の働きの中で確立された。そして教会を命ある有機体、かつ組み立てられた組織体としたのは、この聖霊なのだ。

しかし聖霊は同時に賜物を与え、教会内でミニストリーを遂行する役割もする。それは時に権威を引き起こすのだ。自発的かつ爆発的なミニストリーと成長をもたらす聖霊は、実は、使徒、預言者、牧師、教師の賜物を与える聖霊(エペソ4:11)と、また統治者の聖霊(ローマ12:8)と同じなのだ。実行されるにはまずこれらの賜物をまず会衆に認められる必要があり、又、ある種の組織も必要となる。もし私たちに組織(つまり、選挙、規則、聖職者叙任式、評価システムなど)がなければ、この統治の賜物を用いることもできないのだ。自発的なミニストリーが成長し、繁栄していくためには、これらの組織的なエレメントが存在することが基本要件なのである。

イエスは、リーダーに権限を与える時、彼らの賜物に沿って与えた。つまり、我々が教会リーダーを選ぶときは、主の召命と賜物を認知して初めてそれが可能となる。ところですべての人は教え、伝道すべきだが、聖霊はある人を教師、伝道者に召している(エペソ4:11)。すべての信徒は、貧しい人に分け与えるべきだが、教会はあるリーダーたちを、あわれみのミニストリーの執事に召している(使徒6:1-6,Tテモテ3:8-13)。一方ですべての集会には長老が必要だ(使徒14:23,テトス1:5)。また牧者は、羊をケアする様に、人々の世話をするのだ(使徒20:28-31,Tペテロ5:1-4)。そして信徒はリーダーの権威に服従しなければならない(Tテサロニケ5:12,ヘブル13:7,17)。これらのリーダーが自分の賜物を用いる時は、彼らがキリストのミニストリーを行う時でもあるのだ。

もし神が、すべての信者に賜物を与えるだけで、権威に就く者をだれも召さないとすれば、教会は有機的かつ自発的なムーブメントにすぎず、組織も機構もないものとなる。またもし神が、叙任された聖職者にのみ賜物を与えるとすれば、教会は排他的でトップダウンの組織となる。ゆえに、我々は聖霊の「情熱」(つまりムーブメントを起こすもの)と、聖霊の「秩序」(組織をつくるもの)を語るのだ。実はこの聖霊の働きのダイナミックなバランスこそが、教会を持続可能(サステナブル)にするのである。

このダイナミックさは、Tペテロ2:4-5から迫って来る。ここでペテロは、キリスト者は新たな宮の「生ける石」であると言っている。建物の中の石は無機質なものの象徴だが、ペテロは、この石はみな活きており、それゆえに宮は成立すると(エペソ2:21)。このことから我々は、教会は生き物(つまり必然的に成長するもの)であり、かつ組織(構造を持ち、秩序だったもの)であると知る。そして最も健全な教会は、この生き物と組織の両方をバランスよく兼ね備えている。というのは、聖霊が両局面の作者であり、両者は、もう片方との調和によって初めて活きるからである。

X.地方教会に於けるダイナミックなムーブメント
前の章で、我々はムーブメントのキーとなる要素が、ビジョン、犠牲、一致した柔軟性、自発性の4つのであると学んだ。ではこれらの性質が、独立した教会やミニストリーに登場したら、どんなふうに見えるのだろうか。またどうすれば我々は、地方教会に於けるダイナミックなムーブメントを、組織的なダイナミズムと聖書的なバランスを取りながら、励ましていくことができるのだろうか。

A)ビジョンと信仰が一致を生み出す
ダイナミックなムーブメントを動かすエンジンは、信仰に根差したクリアーなビジョンだ。ビジョンとは将来における具体的な絵を描く強い信仰だ。従い、たとえば強制力のあるビジョンが1つあれば、伝道的な教会を1つの都市に、1世代で10倍に増やすことができる。

B)個人や種族を上回る神の国への献身が犠牲を可能にする。
ダイナミックなビジョンを持つ教会の人々は、自分自身の利益や必要よりも、そのビジョンを優先する。メンバーやスタッフを動かす力は、彼らの個人的な興味や元気ではなく、ビジョンの達成だ。彼らは、それが、自分たちを通して達成されるのを見たいし、またこの満足こそが彼らの最大の報酬なのだ。これはどうすれば起こるのか。無私の献身は、リーダーが起こせるものではない。確かに、これを人が操作するとなると、危険なことだ。ビジョンと献身を持つリーダーのみが、この犠牲的スピリットの火を、その人々に灯せるのだ。その時、「私はこれほど、神と人々にとって役立っていると感じたことはない」と参加した人達は言うだろう。ムーブメントの中の牧会のミーティングは、深く霊的な思いを与える。中心の中心(十字架、聖霊、キリストの恵み)がここにあるからだ。ゆえに人々は、礼拝と祈りにもっと多くの時間を捧げる。

C)一致を強調する時、協力の横串ができる。
新しいムーブメントのメンバーたちは、ビジョンの達成を強く願っているため、彼らは他の人たちと働くことに積極的だ。それは物質的にそのビジョンに捧げることをコミットしている人たち、しかし優先順位や気質が違う人たち、あるいは他の組織に属している人たちだ。組織はどちらかというと、条項やルールに重きを置くため、同じやり方でやらない人やグループに対しては、不信の目を投げかける。が、ダイナミックなムーブメントのあるクリスチャングループは、教団教派の枠を超えて、共通のゴール達成のために働こうとする。その中でバランスはいつも非常に大切であり心がけたいことだ。つまり教義に常に注意を払い、私たちのミニストリーのパートナーが、これらの真理を失いそうだと確信したときは、必要なら神学上の大切な真理のために争う意志を持っていなければならない。愛における真理を、臆病のゆえに語らないとすると、それは協力的でも愛でもない。ミニストリーのパートナーたちが共通で保持すべき大切な真理は、クリアーに述べられるべきであり、もしここから離れてしまったムーブメントがあるとしたら、その事について直接的な会話がなされる必要がある。

D)TOP DOWNの命令がない自発性こそが成長を可能にする
ダイナミックなムーブメントをもつ教会や組織は霊的な自発性をもち、それは継続的に新しいリーダーを輩出し、独創力を生む。私たちが知っているように、自発的な燃焼は内側から起こる火であって、外からのものではない。高度に組織化された教会は構造化してくるため、個人が依頼を受けたり許可を与えられたりしない限り、プロジェクトを提案することはできない。しかしダイナミックなムーブメントを持つ教会は、アイデア、リーダー、独創性を草の根的に生み出す。アイデアは友人同士の気軽な会話から生まれるのであって、フォーマルな戦略会議から生まれるのではない。仕事へのモチベーションは報酬や利己的なものではなく、伝染病のように人から人へ伝わるビジョンがあり、そのために犠牲を払いたいという思いをシェアするところから生じて来る。この「友情」が教会を力づける小型エンジンとなるのだ。

 ダイナミックな自発性の持つもう一つの局面は、リーダーシップが自然と育つということだ。これは、教会は正式なトレーニングをする必要はないということではない。逆にこれは、(1)ムーブメントのビジョンがリーダーシップのポテンシャルのある人を引き付けるということであり、また(2)ムーブメントの働きを通して、次世代のリーダーを準備していくということでもある。新興のリーダーたちが、真のいのちの体験を通してそれを可能にしていくのだ。

 良い例が、改革派の大学生フェローシップだ。改革派は、最近大学を卒業した若者をキャンパスインターンとして採用したが、彼らの多くが、そのままフルタイムのキャンパススタッフとなった。大学のキャンパスで働くことで彼らは鍛えられ、福音伝道者として新しい文化との境目で働くこととなる。これは流れの中で起こったことであってフォーマルな手順を通してではない。この形でキャンパスミニスターをした人は、出来上がった組織で過ごした人より、新規の教会開拓において、その働きを上手にこなしている。結果的に改革派の大学生フェローシップは、ダイナミックで実りある教会開拓者を継続的に輩出している。改革派の大学生フェローシップは元から教会開拓者を育てるために設置されたものではなかったが、典型的なダイナミックムーブメントであり、力強い「教会開拓者部隊」が自然発生的にそこから生じたのだ。

Y.創造的なテンション
聖書が示唆するのは、教会は、ムーブメントか組織かを選ぶことはできず、両方であるしかないということだ。しかしこの中で私たちは、組織よりもムーブメントを強調しようと思う。なぜか。それは時間がたつとムーブメントは組織化するからで、これは避けがたい事なのだ。したがい教会は意図的にダイナミズムを醸成し、それが健全なムーブメントを形成するようにしなければならない。このプロセスが難しいのは、組織の持つ「怠惰性」に抗しなければならないだけでなく、ダイナミックなムーブメントは、ムーブメント同士のテンションがあるからである。例えば「ビジョン」と「自発性」だ。もし、自分たちの目に正しいこと(士師記17:6,21:25)に従って我々が自分のビジョンを定義づけるなら、ムーブメントはバラバラになる。正しいビジョンと信仰は、それを防ぐための接着剤であって、それらははっきり語り続けられなければならない。そのことはトップリーダーによってなされ、この一致に向けた動きが、結果としてムーブメントを構造体に押しやるのだ。

このダイナミックなバランスを維持することはなんと難しいことかと思う。教会、一般信徒、聖職者は普通、これまでバランスの悪いネガティブな経験をしてきているので、その反動で逆パターンを志向し、その結果アンバランスなミニストリーとなる場合がある。一般信徒の進めるミニストリーがレールから外れる時は、時に独裁的でがちがちにコントロールされたミニストリーになることがあるかと思えば、トップダウンから逃れてきた人のするミニストリーは放任主義になる。これらのすべてのアンバランスは、教会を呼吸困難にする。

表面的には、ムーブメントとしての教会を描くと、組織にフォーカスされた教会よりはるかに魅力的に映る。が、ムーブメントにおいては構造が理想を支え、一方、組織においては理想が構造を支える。最終的にはこの両者並存があるべき姿なのだ。ある教会やミニストリーは、極めて聖書的で交渉の余地がない。しかしほとんどが人によってなされているという意味では交渉の余地はある。例えば聖書は、長老を持てという。が、実際それをどう組織化するかについては何も触れていない。聖書の創造的なテンションを操縦する秘訣は、人の造った構造が偶像化するのを避けることだ。相対的で有限な事柄が問答無用の神的権威を帯びる地位に上り詰めてしまわないように注意することである。

ムーブメントがムーブメントのままでいるためには、それが組織化された生き物としてのバランスを得、それを維持していくことが必要である。下の図で、ムーブメメントによって動かされる教会であり続けるためには、Xのしるしが右側になければならない。というのは、教会は常に組織化へ移行するからだ。故に私たちは、常にダイナミックなムーブメントに戻され続ける必要がある。
img181.jpg

Z.ダイナミックなムーブメントとしての教会開拓
(1) ニュートラルな教会開拓
パウロが教会開拓をやめて伝道と弟子訓練だけをした時期はなかった。ミニストリーの基本的なエレメントを使徒の働きに見ると、聖書を教えること、伝道、交わり、弟子訓練、礼拝だ。私は使徒の働きを見て奇妙に思うのが、教会が今もやっているこれら以外になされていた「教会開拓」についてだ。今日この開拓だけは無視されて来た。ある読者は、「あれはあの時に必要だっただけで、今は必要ない」と言う。が、わたしはこれは、健全な教会の大切なポイントを見落としていると思う。つまり教会開拓は、自然な、習慣的なものであり、苦しみながら、あるいは気まぐれにすべきものではない。使徒の働きにあるパウロのミニストリーには、リーダーシップの発展がある。パウロはすべての場所で、回心者の中から複数のリーダーを選び、彼らに教育と牧会の仕事を託した。彼はただ自分のリーダーシップの下で彼らをフェローシップに結び付けようとしたのではなく、回心者を組織し、彼ら自身の権限の下で集まる組織をつくった。この教会には、新しく任じられた人たちのリーダーシップがあった。彼らは、パウロと出会った当初は「弟子」(14:22)と呼ばれたが、パウロがいなくなると「教会」(14:23)と呼ばれるようになる。シンプルに言うと、回心者の増加に伴い教会が増えて行ったのだ。

使徒の働きには、教会建設の2つの道がある。a)パイオニア的教会開拓と、b)教会がする教会開拓だ。
a) パイオニア的教会開拓:パウロの各都市における働きはパイニア的だった。当初平らな土地にくさびを打ち込む伝道作業だったが、他の教会との協力ではなかった。
b) 教会が教会を開拓する:パウロの開拓した教会は家の教会だった。ルデアの回心は家族の回心となり、彼女の家がピリピにおける最初の教会になった。使徒16:40で、パウロとシラスは兄弟に会いにルデアの家に行く。使徒18章ではクリスポの家族に同じことが起こる。これは何を言おうとしているのか。教会の成長が、集会や家の教会の増加によるものだったということだ。初代教会において、家の教会は、教会増殖のムーブメントの各ブロックだったし、教会建設が教会の性質の中に根付いていた。当初教会を成長させようとしたら、それは家の教会をベースとした集会を新しく増やしていくことだった。
今日も同じく、この2つのアプローチが教会建設の道筋となるのである。

(2) 教会開拓をニュートラルに行うために
 まず、通常4つのことを教会はする。それは、人を神に結びつけ(礼拝と伝道)、人を互いに結びつけ(弟子化とコミュニティー)、都市の必要に応え(正義とあわれみ)、文化に対峙する(信仰と仕事の関わり)の4つだ。が、それに加えて、「教会をつくり、増やす」という、第五の切り口がある。この5つ目を自然に行うためにはマインドセットが必要であり、教会開拓をニュートラルに行うために気を付けるべきことは次の3つだ。
a) 自分の資源を手放すこと:自分のお金や、メンバーや、リーダーのコントロールを失うことに前向きでなければならない。
b) ミニストリーそのもののコントロールを失うことに前向きでなければならない。
c) 自分の種族以上に、神の国の世話に積極的でなければならない。

(3) 反対意見に答える
 使徒の働きを読んでいて、教会開拓に対してよく出される反対意見が、「あれはあの時のことだ。今はもう教会はいっぱいある。新しい教会の開拓より、今の教会を力づける方が大切だ」というものだ。が、これに対する答えは以下の通り:
a) 十分に伝道的な教会:都市への伝道は、伝道プログラムによるものではなく、十分に伝道的な教会によってなされる。これまでの教会の伝道方法は、人々に信じる決心をさせることを目的としていた。が、この「決心」は、時とともに消えてなくなるのだ。そして生活を変えるところまで至らない。なぜか。それは、多くの「決心」が、真の霊的悔い改めでなく、ただ神を探す旅の緒に就いたに過ぎないものだからだ。
b) 都市における教会の増加:都市におけるキリスト者の増加は、教会刷新ではなく、教会数の増加、つまりは新規教会開拓によって主になされるのである。
c) 既存教会の刷新:既存教会の刷新は、新しい教会を開拓することによってなされる。その理由は、
1) 新しい教会は、キリストの体全体に対する新しい考えをもたらす
2) 新しい教会は、都市のために働く新しく創造的なキリスト者リーダーを起こす
3) 新しい教会は、他の教会に自己吟味のチャレンジを与える
4) 新しい教会は、コミュニティー全体への福音の供給源となりうる
d) 多様性に寄り添う:都市の多様性に真に寄り添えるのは新しい教会である。新しい教会は、異教の人々への対抗だけではなく、新しい世代、新しい住民、新しい人々のグループに寄り添い、彼らをキリスト信仰に導くのだ。
e) 持続可能ミニストリー:持続可能かつ、他のすべてのミニストリーのすそ野を拡大するミニストリーの確立は、新しい教会を通してなされる。

(4) では都市にはどれだけの教会が必要か。答えは、あなたの想像をはるかに超える数の教会である。
 もともとこの問題は答えるのが難しい。ゴールは決して与えられた地域のキリスト者のマーケットシェアを言っているのではないからだ。それは都市全体に仕え、届き、影響を与えるためのものだ。私たちの求めるべきは、キリスト教の成長である。それも回心における、教会における、都市への影響力という意味での成長である。この目標を達成するためには、多くのミニストリーがなされる必要があるが、アグレッシブな教会開拓はこれらすべての引き金となるのである。

[.教会開拓の各ステージ
(1) 学べ
開拓を召されている地域について学ぶことが第一歩。これから仕えようとしている人々について、また彼らが住んでいる文化について、彼らの内なる生活について、彼らの最大の望みは?強みは?理想は?楽しみは?弱さは?恐れは?偶像は?偏見は?まず個人的なインタビューから始めて、関連の定期刊行物や社会学的リサーチも使おう。また地域の人々の共通した世界観も知ろう。一般恩寵を通して、真理のどの部分を彼らはつかんでいるのか。逆にどの部分を彼らは見落としているのか。何がプレッシャーやテンションとなっているのか。何が彼らの物語で、アイデンティティーか。彼らは何になろうとしているのか。彼らはどこから来てどこへ行こうとしているのか。

彼らの文化脈に寄り添うための質問は以下の通り。
a) キリスト教を信じがたいものにしている「負の信仰」はなにか。
b) 彼らの「負の信仰」で働くテンション、プレッシャーは何か。(彼らは自分らの基準に照らして、何に対して自分にダメ出ししているのか)
c) 彼らのA教義(すでに真理として受け入れているもので、聖書信仰に近いもの)は何か。彼らのB教義(聖書の真理の中で彼らが拒絶しているもの)は何か。

(2)愛せよ
教会開拓の第二ステージは、神に対するあなたの愛を絶え間なく成長させることだ。あなた自身が、伝道や宣教の戦略を進める上でのバランスと霊的な健全性を保つために必要なのが、自分自身に福音を適用し、偶像を投げ捨てることによって絶え間なく成長することだ。その上で、福音をシェアし、あなたの隣人を教えるのだ。また共同体に仕えることを通して、またあなたの家族の生き方を通して、福音のモデルとなるのだ。

(3)結び合わせよ
このステージのゴールは、人々の傷、恐れ、そして希望にチャレンジしつつ、(つまり福音を伝えつつ)、人々の必要のため仕える戦略を開発するのだ。福音をどのように効果的に心に結びつけるか、つまり、人々のストーリーに、どのようにキリストのストーリーを添わせるかを考える。親しい仲間から始めて、文化の強みを上げ、その後弱点に対するチャレンジをして不安定にしておいて、その後、福音によって安らぎを提示するのである。
福音の受肉とは、ダイレクトコミュニケーションを超えて福音をコミュニティーに結び付けること。あなたがいることで、地域が喜ぶにはどうすればよいか。コミュニティーの個人やリーダーたちにコンタクトし、コミュニティーで知覚可能な必要に合致することを始めるのだ。そしてそこにいる人たちに、クリスチャンとはどういうものかを見せるのである。

(4)立ち上げよ
今や、あなたが教会を立ち上げるための準備は整った。だから、あなたの発展の跡をたどるベンチマークとして後々使えるように、あなたのアクションステップとゴールを結び合わせるべく、歩み始めよう。あなたはプランを立てる中で、常に神の支配にセンシティブであれ。大切なのは最終的な細かいプランではなく、プランニングのプロセスの方だ。現実があなたのプランに常に修正を迫るだろう。が、プランのプロセスがあなたを、新しい現実と向き合い、対処できるように備えるのだ。あなたの特別なアクションステップやプランは、次の内容を含む必要がある。
a) 資金的な目標と、それをどう達成するかの戦略
b) 具体的なミニストリープログラムの目標と、それをどう達成するかの戦略
c) リーダーシップの発展と、それをどう達成するかの戦略

 最終的な教会開拓の時になると、一般的にtop downか、bottom upかのいずれかのアプローチをとることになる。両方に強みと弱みがあり、それらは文化脈や開拓者の賜物による。Top downアプローチは、集まって、歌い、教えるなど、フォーマルな礼拝形式から始まる。これは親教会が開拓をリードする場合、あるいは特にon stageの賜物のある教会開拓者の居る集団の場合によく機能する。が、もしバランスを崩すと、学びやリンクのステージがスキップされ、ただ親教会のコピーになってしまう危険がある。逆にBottom upアプロ―チは、開拓者はコミュニティーに居て、そこで何らかの伝道的ミニストリーがスタートする。彼は会話をしながら、人々を小グループ(4−10人)や中規模グループ(15−30人)に組織していく。これがいくつかの小グループや、2−3の中規模グループに育った時点で、教会は日曜の礼拝を組み立てるのだ。このアプローチは、開拓者が対人関係をうまくこなし、権限移譲と、伝道の賜物を持つ場合、最高に機能する。が、もしこれがバランスを崩すと、「何かが起こるのを待っている」人たちを失望させ、離れさせることになる。

\.教会と福音の生態系
都市の諸教会は、どうすれば福音のムーブメントになるほどに互いに一致できるのか。そのためには、彼ら自身が都市全体の教会ムーブメント、ミニストリームーブメントの一部である必要がある。そして、この考えの前提は、一種類の教会、つまり一つの教会モデルや一つの神学的伝統では都市全体をカバーできないというところにある。一つの都市全体にアウトリーチするためには、他の教会とともに働くことへの積極性が不可欠となる。それは、違う信仰や行動様式を持つ教会をも含めるのであり、ある意味「公同の教会」の考え方だ。一致は単に聖霊の働きの「結果」ではなく、聖霊が働くために用いる「道具」でもあるのだ。ゆえに一致を保つことは非常に大切である(エペソ4:3、ピリピ2:1-4)。

公同を否定する宗派主義は、不要な分裂を生んだ。プロテスタントの場合、もし信仰や聖礼典のやり方が違えば、そこに別の教会が誕生することは仕方がない。が、これは、協力もしてはならないということを言っているのではない。「間違った」宗派に属する、しかし本当の信者たちからも、もし距離を置く形でミニストリーを展開していると、キリスト自身がウエルカムしている人たちをもウエルカムし損ねることになる。ムーブメントには協力のダイナミズムが必要だ。それは違う気質や観点を持った人々を励まし、共通のビジョンやゴールに向かわせるのだ。実際ムーブメントのダイナミズムの中で私たちの見る光景は、本来ぶつかり合う関係にあった者たちが、創造的な新規構想をもってやって来るというものだ。なぜなら、教派、気質、個性という点では違う人たちだが、彼らはビジョンを共有しているからだ。もしこの協力のバイアスがなければ、ダイナミックなムーブメントは止まるか、腐るか、してしまうだろう。

公同性と、宗派間の分裂をなくす必要性は、他にも理由がある。私たちが他の種類の教会を批判したり非難したりすると、私たちキリスト者は許容性に欠くという共通意見を持たれてしまう。もし私たちが一致していないと、世界は我々を排除し、無視することになる。逆にヨハネ17:23にあるように、一致するなら、神が送られた者たちであると世は知るのだ。が、逆の場合、キリストの大祭司のとりなしの中で、彼らには我々を除外し、無視する権利があるということだ。従い私たちは、教団教派の中にあって、神学的特徴を共有するかぎり協調していく必要がある。

この確信から、リディーマー教会は長年、資金も、他の資源も、他の開拓教会に割いてきた。長老派のみならず、ペンテコステ、バプテストなどの教会も援助してきた。私たちのこの努力は、多くの批判を受け、また同時に注目も集めてきた。私たちはこれこそ、公同性を実行する一つのやり方だと信じるし、これが敵対する小国あふれるバルカン半島的なキリスト教会をムーブメントに移していくのだ。

(1) 教会のモデルとムーブメント
正しく聖書的な、あるいは正しく文化的なモデル教会が採用すべき一つのやり方があるわけではない。聖書が、教会に対して「せよ」と言っていることは、「証しをする、貧しい人に仕える、みことばを説教する、人々を弟子化する、礼拝する・・・」と実に豊富で、広範囲だ。一つの教会がこれらすべての賜物を同じレベルで兼ね備えているわけではなく、これらすべてを同じくこなせるわけではない。これら全てをやるための努力はやめてはならないが、これらの役割をすべて完ぺきにこなすことのできる教会はないだろう。だから都市は全体として、すべての教会を必要としているのだ。

以前バランスの取れたミニストリーの最前線として、5つの教会モデルを見た。
a) 組織としての教会(教義主導型)
b) 神秘的交わりとしての教会(礼拝主導型)
c) 聖礼典としての教会(コミュニティー主導型)
d) 使信としての教会(伝道主導型)
e) 仕える者としての教会(正義主導型)
これに加えて、「弟子たちのコミュニティーとしての教会」という表現も出て来る。これは上記のすべての局面をバランスよく備えた教会という意味だ。良い教会とは、この5つが、同じレベルで為されている教会のことを言う。ゆえに健全な教会は、このうちのメインの何かを強調しつつも、他のモデルに対しても適度な強調をしているのだ。逆に不健全な例は、このうちの1−2個を過度に強調し他を無視する。

 私(ティムケラー)は、大学と神学校時代、非常に健全な教会(教義主導型に近い)に集った。彼らはすぐれた教えと、説教と、深い聖書研究を強調した。その後、神学校卒業後に赴任した最初の教会は、南部の工業地帯のブルーワーカーの集まる小さな教会だった。教会員はほぼ誰も大学を出ておらず、老人は高校も出ていなかった。それは100人から150人で、30年間不健全な状態で来た教会だった。私はこの、不健全で淀んだ教会と、健全で刷新された教会の違いを強く感じたが、教会モデルが違うという意識はなかった。当初の私のこの南部の教会に対する刷新ビジョンは、聖書をしっかり解き明かし、キリスト者としての課題をセミナー形式で語り、スモールグループで聖書研究をすることだった。何年もして私は、この集団は、執事の賜物、つまり教えたり知識を与えたり伝道したりの預言者でなく、祭司型の賜物を用いるべき集団であり、コミュニティー主導型だと気づいた。それは、ゆっくりした、時にイライラするプロセスだった。この教会を去って何年もしてから、この教会が私と妻のために、叙任25周年をお祝いしてくれた。祝いの中で、多くの人々が、私が牧師としていた時の思い出を語ってくれた。が、一人も、私の説教の内容に触れないことに私はショックを覚えた。この経験は、教会モデルの違いをはっきり表している。ニューヨークでは彼らが私を牧会者として受け入れたのは、私の説教を評価していたからだった。が、バージニアでは、彼らが私に説教をさせてくれたのは、私の牧会を評価してくれていたからだった。コミュニティー主導のモデルにおいては、牧会が説教のセットアップになるが、ニューヨーク・リディーマー教会のように教義主導型の教会では、説教が牧会や他のリーダーシップのセットアップになるのだ。あなたが自分の専門性を、コミュニケーションの中で上手にデモンストレーションするなら、人々はあなたを自分の人生に招き入れ、あなたに従うのだ。

 なぜ教会のモデルを理解することが大切か。それは、この理解がなければ、あなたの都市に対する「公同性」が生まれないからだ。単一、かつ絶対の聖書的教会モデルなどは存在しないという事実を受け入れない限り、あなたは他の教団教派との強力なつながりが必要だということが分からないだろう。それがあなたが通常強調するのとは違う強調点や強みを、別モデルという形で具現化してくれるのだ。さもなくば、あなたの教会には公同性も、教団教派間の協力も、ムーブメントもなくなるだろう。複合的な聖書的教会モデルを受け入れない限り、あなた自身のムーブメントとネットワークが生む教会は、型にはまった不適切なものとなり、そこでのリーダーの賜物も生かされないことになる。またあなた自身のムーブメントは単調で、一種類の人にしかアプローチできないものとなり、神の定めた多様性からは程遠いものとなる可能性がある。もし私たちが、「多くの人はわたしたちの考えるクリスチャン像を理想とし望んでいる」と考えるなら、それは間違いだ。多くの違った教団教派がダイナミックなムーブメントを起こさない限り、都市を勝ち取ることはできないのだ。

].ムーブメントと福音の生態系
教会と教会のネットワークが都市における急速な成長を始める時、そのミニストリーのなかにいる人々は、神がこれまでとは違うことを始めようとしておられると感じるものだ。それは「キリスト教の再構成」が起こりつつあるのだ。教会が成長する時、その成長はしばしば活気のない教会から信徒を引き出す形でおこる。そしてもしこの成長しつつある教会が彼らをよく弟子化し、彼らの賜物を適材適所に配置するならそれはよい事である。が、これがメインの部分なら、都市におけるキリストの体としての教会は、全体としては成長していないことになり、単に再構成されているだけである。都市全体にアウトリーチするということは、その中に効果的な教会をいくつか持つというのではなく、リバイバルのエネルギーと回心者の爆発を持つということだ。

福音のムーブメントが起こるとき、キリストの体の成長は、都市の人口増より大きくなる。我々はこれをムーブメントと呼ぶ。なぜならそれが教団教派を超え、拡散していくエネルギーを持っているからである。それは一つの教会や、一握りのリーダーたちに留まるものではなく、またその推進力はいかなる組織から出てくるものでもない。それは生き物であり、自ら宣伝力を持ち、相互作用、相互支持、相互維持をしつつ、互いを刺激し合う力を持つ。これを我々は「福音の生態系」と呼ぶ。これは生物の生態系が相互依存の組織であり、システムであり、自然の力であるのと同じく、福音の生態系も相互依存の関係にあり、かつ個人的、アイデア満載の、霊的人間力なのだ。もし生態系の全要素が、場をわきまえてバランスを保つなら、その生態系全体が新たな健康と成長を生み出すのだ。

では、我々は、自ら福音の都市ムーブメントを起こすことができるのか。答えはNOだ。ムーブメントは2つの要素からなるからだ。再びガーデニングの隠喩に戻りたい(Tコリント3:6-8)。園の繁栄はガーデナーの技術と勤勉さ、更に土地と気候の条件による。1つ目の要素が、我々人間のムーブメントに対する貢献だ。これは自己成長するミニストリーの場合も含む。しかし2つ目の要素は、周辺の条件であり、これは完全に神の領域に属する。神は、みことば(種)に対して、人の心(畑)を開かれる。また神は、文化をも福音に対して解放させることができる(天気)。神はいかにこれをなされるのか。時に神は、文化の内において、信仰の危機をもってこのことをなさるのだ。2つの大きなキリスト教ムーブメントがあり、2〜3世紀の初代キリスト教会や、20〜21世紀の中国の教会は、危機にあって刺激を受けた。もう一つは中国でのマルクス主義によるものだったが、当時の中国は妥当な世界観から剥がれ落ち、落下し始めていた。そこには「古い信仰」に対する不信があった。これらの文化的な危機と、古い信仰に対する広範囲の幻滅感が、キリスト教ムーブメントに過剰充電し、彼らを大いなる高みに引き上げたのだ。それは敵意でもない「無関心」の蔓延した今の時代では、至ることのない高みだった。人々を霊的資源に向けさせる大災害というものがある。1905年以降の、日本による韓国統治が伏線となり、その後キリスト教への大量回心が起こったのもその一例である。

我々が聖霊の働き無しで、福音のムーブメントを起こすことはできない。ムーブメントは、神の霊により導かれ、祝され、力づけられている生態系だ。都市の福音ムーブメントの下地となる生態系は次の3つの同心円構造である。
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まず1つ目の円(最中心、p14参照)は、「都市文化に文脈化された神学的ビジョン」だ。生態系の一番中心にあり、コミュニケーションと、それによって福音をいかに受肉させるかの「方法論」だ。都市における福音ムーブメントを引き起こす教会は、すべてが同じ礼拝スタイルをしているわけではない。また、同じ教派や、同種の人々にアウトリーチしているわけでもない。が、彼らはもっと基本的なところで同一DNAを共有している。つまり、福音中心、文化に敏感で、バランスの良い宣教と伝道をし、自己複製機能を持つということだ。言葉を替えると、彼らはセンターチャーチ神学にコンセンサスを持っている。すなわち聖書に根差し、文脈化を基本的戦略とし、それをもって今のこの瞬間に、特定文化にいる人たちに健全な教義を伝えることを助けていくのだ。

2つ目の輪が、教会開拓と教会刷新ムーブメントだ。都市の既存の教会は、会堂は有っても、基本的に空っぽだ。だからまず既存教会の刷新が第一と考えるのが自然だ。しかし、前にも述べたように、新しい教会をつくることが実は、都市に既存教会の刷新を促すポイントになるのだ。新しい教会はアイデアを紹介し、教会に行っていないクリスチャン、あるいはノンクリスチャンをキリストに向かわせることに、古い教会より成功している。これが、これまで何度も都市にアウトリーチし、都市を刷新しようと、まるでウエイトリフティングをしてきたクリスチャンたちの既存のコミュニティーとネットワークに、霊的酸素を送り込むのだ。

3つ目の輪(一番外側)が、個別のミニストリーだ。この3つ目の輪は、個別のミニストリーの複雑な組み合わせから成る。ここには7つの基本要素がある。
a) 祈りのムーブメント:都市のためのとりなしのビジョンを持ち、各伝道を飛び越えて一致をもたらす。祈りは友情をつくり、教派や組織を超えた関係をつくる。これまで似て非なると思ってきた友人が、成長と変化をもたらすのだ。
b) 伝道のミニストリー:特別なグループ(ビジネス、母たち、異国人など)への伝道ミニストリー。都市の若者を獲得することイコール、生え抜きの都市文化に精通した人たちと仲間になることを意味する。
c) 正義とあわれみのミニストリー:このミニストリーのための部隊を配置し、社会の問題と、隣人に対して対抗可能なものすべてに寄り添う。都市のクリスチャンは、彼らの隣人に対するケアで、有名にならなければならない。それこそがイエスが有名になる最速の道だからである。
d) 信仰と仕事のミニストリー:このミニストリーの独創的フェローシップは、同じ職業の人たちが都市の各エリアから集まり交わりを持つ会だ。アカウンタビリティー(説明責任)を持ち、互いに助け、クリスチャンならではの違いを出して、与えられたポジションでよい仕事をするのだ。
e) 都市のファミリーをサポートする:学校関係、カウンセリングなど
f) トレーニングシステム:都市の教会のニューリーダーたちを、引き付け、開発し、育てるのだ。
g) 都市のクリスチャンリーダーたちの特別な集会:励まし、和合と一致を求めるのだ。
これらの生態系が場を得、強くなった暁には、互いが刺激し、増え、ムーブメントは持続可能となる。

Ⅺ.変化を起こすtipping point(不可逆地点)
分離したイベントや個人的な存在が、あるtipping pointに達し、結晶し、成長し、持続可能なものとなる。それは変化にむけるダイナミックなムーブメントが止まらなくことでもある。この「不可逆地点」は社会学的な単語で、重大な峠、沸点とも言える。例えば、新しいタイプの住民(裕福、貧乏、あるいは文化的に違う人たち)が5%以内の場合、地域はほぼ同じ状況だ。が、その新しいタイプの人々が5〜25%になった時、(文化の内容にもよるが)地域は、素早い、また明らかな、かつ重大な変化を迎える。都市における生態系の不可逆地点は、この生態系が基本的な場を得、多くの教会が活気を持ち、リーダーがいて、自分が教会をスタートしてから5〜6年で次の教会を開拓するというマインドセットができた時に、そこに達する。もし神の祝福があれば、この地点でムーブメントはすでに持続可能なものとなり始めている。そしてそこから、十分な新しい信徒リーダーたち、集会、そしてミニストリーが、自然と湧き上がって来るのだ。都市におけるキリストの体は、基本的に自分で自分を養い、自分でリーダーを生み出し、また自分たちの学びを自分たちで行う。その結果、7〜10年ごとに信徒数、教会数は2倍になるのだ。

ムーブメントが発展すると、次に達するのが、都市レベルでの不可逆地点だ。これは、都市において福音によって変えられたキリスト者の数が十分に増え、そのキリスト者の、住民や社会生活への影響力が、さらには文化そのものに対する影響力が、目に見えて大きくなり、かつ明らかになった時を指す。ニューヨークでいわゆるマイノリティー(民族的でも、文化的でも、あるいはライフスタイルでも)が、都市全体の生活スタイルへの影響力を持ち始めたのが、彼らの数が5―10%に達したときだった。その時彼らは、公の場でもアクティブになった。ある書物では、刑務所の囚人の10%がキリスト信仰を持ったら、刑務所内の生活も協力関係も変わって来るだろうと言われている。都市における不可逆地点、つまり福音が目に見えるインパクトをもたらし、市民生活も文化をも変えてしまうポイントは、正確には定めることはできないが、ニューヨークの人口の10%が福音中心とした教会に属するようになることを思い描きながら、私(ティムケラー)は祈り、そのために働いている。マンハッタンで言うなら10万人(同じ率で言うと、中央区月島地区は7千人)だ。

今日、キリスト者とはどんな人か、誰も知らない。が、もし10%がクリスチャンになったら、その時、これまで日本人にキリスト信仰を伝えることを難しくしてきた強烈なバリアが、崩れ去ることになる。そして何万人もの魂がそこで救われるのだ。ではどうすれば都市の福音ムーブメントが大きく成長し、都市レベルでの不可逆地点に達することができるのか。それは神の恵みによるのであって、歴史の本がそのヒントを示してくれている。我々はキリスト者数の急上昇が、どのようにしてAD3世紀にローマ世界を変え、またそれが北方のヨーロッパを5世紀から15世紀の間に偶像から解放したかを知っている。18世紀の英国の信仰覚醒運動が、19世紀にどれほど英国の社会を変えたかも知っている。しかし今の時代の文化の担い手である巨大都市が、どのように10%の福音信者を得、又その人たちがコアの信徒となって、芸術、科学、教育、ビジネスでのそれぞれの役割を演じ、また当時に、その力と富と影響力をもって、社会の隅に追いやられてきた人たちに貢献できるようになるのかはわからない。

世界のすべての都市はイエスキリストを必要としている。しかし、私たちの都市は(東京は)、もう2−3の教会を増やすことを望んでいるのではない。そうではなく、福音ムーブメントが都市全体のレベルで不可逆地点に達することを望んでいるのだ。したがい、それを知っている都市の教師たちは、情熱的にそのゴールに向かって自分たちの人生を捧げようとしている。たとえその完成を自分の人生の中で見ることはないとしても。まさに、詩篇71:18「年老いても、白髪頭になったとしても、神よ、わたしを捨てないでください。私はなおも、告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを、後に来るすべての者に」の思いである。確信から来る期待と、信仰から来る忍耐をもって、東京がこの神の栄光に到達するまで、我々は自分のビジョンを追い求めていくのである。

Ⅻ.まとめ
ルカ19章、ザアカイはイエスキリストを一目見ようとイチジク桑の木によじ登る。するとそれを見たイエスはいきなり、「今日あなたの家に泊まることにしている」と皆の前で友達宣言をする。それを聞いた群衆は文句を言ったと7節にある。日頃の恨みとばかりに、スクラムを組んで、ザアカイがイエスに近づけないように邪魔をしバカにしていた群衆だったが、イエスのそのことばに「王よ、救い主よ」の思いは冷め、興ざめした彼らは三々五々家に帰ったのではないだろうか。ザアカイはここに、閑散とした場に残されたイエスに、自分のために払われた犠牲を見た。大群衆の歓呼ではなく、ただ一人の罪びとの私との関係を主は選んでくださったと。まだ起こっていないイエスの十字架をここに見たのだ。イエスはまず悔い改めなさいそうすれば家に行こうとは言われなかった。先に友となり十字架に掛かって下さった。この愛を知ってザアカイは、自分をこれまで縛ってきたお金と権力いう偶像に気付き、そこから離れてイエスの愛に応えて生きる人生へと移された。私たちが伝えたいのは、このイエスのダイナミックな愛であり、それを知った時に起こる偶像からの劇的な解放であり、それを伝えるために求められているのが、その人のために私たちが捧げる犠牲だということなのだ。この愛の福音が東京に満ちることを神は願っておられる。この神の思い、今起ころうとしているダイナミックムーブメントを、私たちの恐れや消極的な思いがとどめることが無いように、聖霊による励ましを頂きつつ、このミニストリーに大胆に携わらせて頂きたい。      
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2019年01月30日

ミニストリー最前線でのバランス(本文p291〜335)

T.はじめに、バランスとは
センターチャーチ神学のビジョンを掲げる教会は全体的で、かつバランスの良いミニストリーを追求する。それは福音は、未信者を改心させるだけでなく、信者を建て上げる働きもするので、教会は弟子訓練と同時に伝道を大切にする必要があるということ。また、福音は世に対して、言葉で提示されるだけでなく、行いとコミュニティーによっても提示されるので、人々の必要に向けてアプローチするためのミニストリーを教え実行することは避けられない。また福音は個人を新しくするだけでなく、コミュニティーや文化をも新しくするので、教会のなすべき弟子訓練は、個人的回心と、キリスト教的コミュニティーの形成、都市における文化の刷新のすべてを視野に入れたものでなければならない。が、現実は、ミニストリーの最前線でこれらをバランスよくとらえている教会はほとんどない。伝道に注力する教会、交わりやコミュニティーに全力投球する教会、貧者救済や社会正義にコミットする教会、文化やアートに力を注ぐ教会など、それぞれだ。実際これらのミニストリーのリーダーたちは、他のミニストリーの強調点に対抗しつつ、これらを進めているのを発見する。貧者のために働く人たちは、「仕事と信仰」に集中することはエリート主義だと考えるし、コミュニティー、弟子訓練、きよさを強調する人たちは、教会成長を大切にすることは霊的に浅薄だと考える。

 文化変容だけを考えても人は救われないし、ただ悔い改めと回心を求めるだけでも文化は変わらない。実は両方が必要なのだ。実際進める中で、一つの最前線での成功はミニストリー内の他の最前線での成功によって生じているということが分かって来る。真理は、もし我々が一時はこれらのすべてをやることを何らかの形でトライしない限り、その内の何一つとしてうまく行かないということだ。言葉を変えると、センターチャーチミニストリーは統轄的なミニストリーということである。

U.教会についての聖書の隠喩のバランス
教会について聖書の隠喩は、「選びの民、聖なる王国」(Tペテロ2:9)、「家庭、家族、兄弟姉妹」(マタイ12:49)「キリストのからだ」(Tコリント12:12〜)等など、これらから、取り換えることは不可であり、互いに依存の関係にあるとわかる。また「キリストの花嫁」(Uコリント11:2)から人間の関係を超えた神との親密さがあることも分かる。神の畑、神の収穫、オリーブの木、ぶどうの木などと、聖書には80以上の教会についての隠喩があるが、このうちのいくつかに集中してはならない。すべてが教会生活への指針なのだ。が、これはチャレンジだ。我々の傾向は、このうちのいくつかにスポットを当て、それを教会理解のアイデンティティーとして、ほかを無視するところがある。教会のモデル化は避けようがない。集会のリーダーの賜物、召命、社会的文脈などにもよるし、ある隠喩が適合し、あるミニストリーが得意だとなると、その偏りは生じる。すべての霊的賜物をもつキリスト者はいないとTコリント12章でも言っている。地方教会はしょせんキリストのからだの一部なんだということとその限界を、謙遜をもって理解しなければならない。

無視できる隠喩は一つもない。すべて聖書的だ。すべての教会は聖書の言う豊かなイメージに対して真実であるよう努力すべきだ。しかし、どの教会にもリーダーシップや、経済的な能力にも限界がある。これは逆に、自分の強いミニストリーを補強するために教会は「統合」によって、すべての形式のミニストリーを求める努力をする必要があるということだ。自分の強みに気付き、そこに資源を投下するのだが、聖書が言う教会とはこういうものだという、こうあるべきだという指標をもとに、弱点をテコ入れする努力を忘れない、あきらめないということだ。これはキリスト者の役割として、個人的な賜物を分かち合うことと似ている。例えば聖書は、伝道し、貧しい人を愛せよと言っている。ある人は伝道に賜物があり(エペソ4:11)、ある人はあわれみと奉仕に賜物がある(ローマ12:7-8)。従いキリスト者は、自分の賜物を広範囲に使う機会を探す必要があると同時に、自分が得意と思わない分野でも、聖書が「義務」と言っていることについては、気にかける必要があるのだ。我々はこの「義務」が難しいことを認めなければならない。実際これは、教会のリーダーのぶち当たる最難関のバランスなのだ。どの教会も決して平均的にすべてをうまくこなせるわけではないが、その事を認めつつ、教会に託されたそれらの「機能」を排除してしまってはいけない。とくに都市の教会は、その大都市の複雑さゆえに、可能な限り寛大なコミットと強調をもって、すべてのエリアのミニストリーを注意深く絡ませていく必要がある。

V.4つのミニストリーの最前線
その上で4つのミニストリーを提案する。
(1)人々を神に結びつける (伝道と礼拝を通しての)ミニストリー 右矢印1Wへ
(2)人々を互い結びつける(共同体と弟子化を通しての)ミニストリー 右矢印1Xへ
(3)人々を町に結びつける(あわれみと正義を通しての)ミニストリー 右矢印1Yへ
(4)人々を文化に結びつける(信仰と仕事の統合を通しての)ミニストリー 右矢印1Zへ

また、教会の聖書神学的な働きとして、クラウニーは次の3つを、「ミニストリーの聖書神学的なゴール」として挙げている。
1)我々は礼拝を通して神に仕えるために召されている(ローマ15:8-16、Tペテロ2:9)
2)我々はキリスト者の教育を通して互いに仕えるために召されている(エペソ4:12-26)
3)我々は証しを通して社会に仕えるために召されている(マタイ28:18-20,ルカ24:28,使徒5:32)
この3つのゴールは、教会が何をするために召されているかを表している。我々はこの1つを強化して集中する様に召されているのではない。すべてをするのだ。クラウニーはこれらのゴールは実は1つのゴールであって、教会としての基本的な召しであり目的だとする。

W.【人々を神に結びつけるミニストリー】
数世代前まで「どう礼拝するか」などと聞く人はいなかった。伝統があり、それに沿った礼拝を皆がやっていたからだ。が、今はいろいろな礼拝形式が入り乱れている。教団教派をまたいでのみならず、同じ教団内でもそうだ。もっともよくある間違いが、「現代的かトラディショナルか」というもので、実は今やその議論は意味を持たなくなったのだ。それは、最も革新的な教会でも礼拝を完全に「再発明」することは不可能であり、礼拝の伝統は避けて通れないからだ。パウロはTコリント9:19-23で、多くの文化を取り入れ「すべてのもののためにすべてになる、それは幾人かでも救うため」と言っている。が、これは礼拝にも当てはまる言葉であって、決して相対主義を言っているのではない。逆に、文化の中には、聖書と直接に矛盾しないため、勧めも禁止もしていないものが多いということを思い出させてくれる。「文脈化」の章でも学んだが、すべての人には文化がしっかり埋め込まれており、それは礼拝でも同じなのだ。それぞれの礼拝形式は、一定の聖書的保証があり、又それなりの実を見てきたものだ。が、すべての礼拝形式には、聖書の原則のみならず、文化的気質的な要素が含まれているということを我々は認めなければならない。

ティムケラーは、自分の経験をこう語る。改革派や長老派の礼拝はみことば中心で、自分にとっては大変満足の行くものだ。が、この歴史的なスタイルは、予測不可能なことや、大衆の感情に応える余地は持たない。なぜか。それはパウロの「すべてのことに適切に秩序正しく」(Tコリント14:40)を採用しているからだ。これが長老派とは無関係な文脈で語られているにもかかわらずだ。この秩序は王の前で尊敬と礼節を重んじる中で生まれたものであり、北欧の中流クラスの人たちの尊敬を表す型であり、偶像礼拝を含む間違いをコントロールするためのものであったことを認める必要がある。我々の好きな礼拝スタイルが、実はそういったいろいろな原則と気質とカルチャーのミックスで出来上がっているのである。
これはティムケラーがそうであったように、「限定された原則」に安心感を覚える人にも、フレキシビリティーを与えてくれる。そしてそれは2つの要素から成り立つことになる。礼拝についての「聖書的要素」(つまり説教、みことばを読む、賛美、祈り、洗礼、誓約など)と「状況」(この「要素」を行う上の特別な方法)だ。聖書はそこまで指示していないし、これらの数えきれない状況にも触れていない。フォーマルさのレベルや、礼拝に起こりうる予測不可能なことについても指示がない。礼拝の時間、それぞれにどれぐらいを割くか、曲の種類、賛美歌、楽器、感情の表現、礼拝の順序なども。新約にはレビ記のような記述はない。1560年ストットランド信条には、「人が考案した礼拝順序ややり方がすべての年齢や、時、場所で正しいとは言えない」と言っている。


(1)人々を神につなげる原則のガイド
従い聖書は、礼拝の問題に関してはかなりの自由を与えていると言える。この自由をどうすれば賢く使えるのか。どのアプローチを使うべきかをどのように決めればよいのか。我々が人々を礼拝において神とつなげようとするとき、いくつかの「視野」を頭に入れておくと役に立つ。
1) 標準的な視点・・・聖書と過去を見る
まず礼拝についての聖書の神学が、今の礼拝のかたちを決める。理論的には、礼拝についての神学は、固定され変更不可でなければならない。しかし実際は、我々の罪深い心と、聖書の豊かさは、私たちの礼拝の神学が常に発展途上にあることを意味する。つまりもっと満ちたもの、もっと正確なものへと。私たちはつい、自分たちはバランスよく礼拝を理解していると考えてしまうが、実際はほとんどの場合が違う。しかしここからスタートするのだ。聖書がどういう形で礼拝すべきと言っているかを知り、それをもとに毎週の礼拝をつくって行かなければならない。従いベストの方法はみことばを調べること。そこから神学的な結論を引き出すことだ。私たちの合うと考える歴史的な伝統に従うか、あるいはそこからの情報を得た上で他の伝統から学び採用するのがよい。
2) 状況面の視点・・・文化と教会のセッティング
カルヴァンは、礼拝形式は神学的歴史的検討からのみ決まるのではないと気づいていた。彼はよく、「何が教化するか」が礼拝形式を決めると言っていた。言葉を替えると、何が私たちのコミュニティーと教会の人々にアピールするかを考えることは大切だ。これを2つの局面に切り分けよう。
A)第一に、我々の文化脈が礼拝を形作る:
礼拝をデザインする時、「ただ聖書的に」とナイーブに考えてはいけない。実際は文化的な、また個人的な好みがかかわって来るからだ。あなたのコミュニティーには誰がいるのかを考えて、彼らに向けて礼拝を「変形」させるのだ。それはあなたの聖書神学と伝統が関係してこず、自由のあるすべての場所で、である。
B)第二に、教会のモデルとコアバリューが礼拝を形作る:
多くの教会が礼拝の目標に掲げているものは全て少しずつ違う。彼らは皆礼拝しているし、神をほめたたえるし、あがめるし、高い価値を認めている。しかし伝統が、この最終ゴールに至る道を違えてしまうのだ。伝統的な自由教会は「教える」礼拝、プレイズワーシップ系は、「賛美し高める」礼拝、シーカーセンシティブは、ノンクリスチャンに伝道しつつ礼拝者を高揚させる礼拝と。私たちの教会もこのうちの一つか、あるいはそれらの複合体なのである。
3) 実存的な視点・・・気質と相性
最後に私たちの個人的な相性(好み)を知る必要がある。礼拝の経験の中で、パスターやワーシップリーダーとして、我々自身が、何が好きで何が嫌いかを知る。我々自身の集会を特別視しない。そしてそのゴールは、我々自身の強みを知ることである。
私たちの個人的な好みや嗜好を正当化するのに神学的な議論を持ち出すのはよくあることだ。1つの例が、ポピュラーな文化は礼拝するための価値ある手段ではないというもの。文化レベルの高い音楽のみが使われるべきであり、その理由が、それを生み出すために、また評価するために、高い技術が必要だということだ。しかしこれらの批評家たちは、ジャズの礼拝は好まない。ジャズは高い文化と評され、かつそれをマスターし、あるいは評価するのは、ロックやゴスペルやポップミュージック以上に難しいにもかかわらずだ。よくあることだが、これらの批評家は単にクラシックが「好き」なのであって自分の好みを普遍化するために神学的正当化を求めているだけなのだ。

(2)求道者のための福音伝道的礼拝
1980年代に、1つの集会では、クリスチャンとノンクリスチャンの両方に届くことは無理だと言われた。ゆえに週末のシーカーズサービスが始まった。これらはクリスチャンのための礼拝でなく、アウトリーチのためのイベントで、クリスチャンは週の半ばの礼拝に出席するよう勧められた。これへの反発は、こんな議論を呼び起こした。「日曜礼拝は未信者のためのものか。それとも神のためのものか?」と。彼らの答えは、「もちろん日曜礼拝は神のためのもの」。彼らは礼拝が福音的でなくなることも想定していたのだ。が、ティムケラーは、それは間違った仮定に立ったものだと考える。彼の主張は、毎週の礼拝は、信者、未信者の両方に効果的でありうるし、未信者への伝道と信者の教化は同時に可能というものだ。それはそのどちらにも重点を置きすぎないことと、福音中心で、標準的な言語で語るという前提に立ったことである。もちろん信者がもっと成熟するための福音的な集まりは必要だ。と同時に、未信者が質問や心配事を十分に分かち合える場も必要である。こういった追加的な経験をする場の必要はわかりながらも、毎週の礼拝が、伝道面でも教化面でも中心的なものになりうるとティムケラーは信じている。

 ところでパウロはコリント人に、「預言は信徒を教化する」「預言は未信者の罪を悟らせ立ち返らせる」の二つの理由で、異言より預言を大切にせよと言った(Tコリント14:24-25)。礼拝の中で、未信者が悔い改める方法をこれほど詳細に語る例はほかにない。また使徒2章には、もっと説得力のある「伝道的礼拝」の根拠がある。11節に、聖霊が下ったら「私たちの言葉で」異言を語るのを聞いたとある。その結果、彼らは大変興味を持ち、好奇心に満たされた。「これはいったいどうしたことか」(12節)と。そのあと彼らは深く罪を示され、「人々は心を刺され、『私たちはどうすればいいのですか』」(37節)とあり、教会の礼拝は外部の人の興味を引くということがよく分かる。また興味と好奇心が、そのあとの悟りと悔い改めと回心に人々を導くとわかる。つまりそれは伝道的なのだ。

 我々はTコリントと使徒の状況の違いにも注意をしなければならない。Tコリント14章はスポット的な悔い改めを描写している。しかし使徒2章では、まず未信者たちは、「違い」にショックを受け、そしてそのあとに悔い改めに導かれている(37−40節)。しかしその前にペテロの語った福音があり(14−36節)、彼らに対して、個人的に、どうキリストを受け入れるべきかを語っている(38−39節)。これらの状況の中で語られる異言についての内容とは違うのだが、ここで、礼拝と伝道にスポットを当てて考えると、次の3点が浮かび上がる。
1) 未信者が信者の礼拝に参加することは期待すべきだということ:
使徒2章の出来事は口コミの騒ぎによって起こった。Tコリント14章の出来事は信者の友人からの個人的な招待の結果として起こった。どのように集まったのかは別にして、パウロは未信者が礼拝に来てくれることを期待している。
2) 未信者は信者の神への賛美を理解すべきだということ:
使徒2章において、この理解は奇跡的な神の介入によって起こった。Tコリント14章は、人のデザインと努力によって起こった。しかしこの「理解」がどんな背景で起こったかに関係なく、パウロは、未信者がいるのだからこのような礼拝は必要だと言っている。日頃礼拝に来ていない未信者を「喜ばせる」ことと、神を喜ばせることは矛盾しない。彼らが礼拝に出てどう感じるかを配慮することは大切だ。
3) 未信者はわかりやすい礼拝を通して罪を示され悔い改めに導かれる可能性があるということ:
Tコリント14章は礼拝中に起こった。しかし使徒2章は、アフターミーティングや、フォロー伝道によって補われることによって起こった。神は、私たちが神を礼拝する声を、世がふっと耳にすることを望んでおられる。神は、我々に単に神を礼拝するだけでなく、「国々の前で賛美する」ことを求めている。我々は福音を未信者に伝えるだけでなく、彼らの前で「意図的に神を祝う」ことが求められており、そのために召されているのだ。

(3)福音伝道的礼拝の実際的な役目
福音伝道的な礼拝を目標に掲げるなら、それをどう成し遂げるのか。次の3つが教会として可能である。

<2>未信者を礼拝に呼び込む:
このナンバリングは、間違いでない。この務めは2つ目なのだ。が、多くの人が1番目と思っている。伝道的な礼拝をする前に、未信者をまず礼拝に呼ぶのは自然なことだ。が、実際はその逆が正しい。未信者を、礼拝が伝道的でないうちに礼拝に招くということはできないからである。とくに未信者が礼拝に来るのは、信者の友人に誘われて初めて来るのだ。詩篇にある通り、諸国は直接招かれる必要がある。が、この招待を刺激的にするのは、礼拝に出たときのわかりやすさと質だ。ほとんど信者は、「もし自分が友人を招いたら、彼らが礼拝に魅力を感じるかどうか」を常にシュミレーションしている。たとえ自分たちにとっては啓蒙的、教化的であったとしても、未信者にとってはネガティブな反応しか期待できないとしたら、彼らは友人を連れてこようとは思わないだろう。これが彼らの予想であり、彼らはそれ以上何のアクションも起こさないが、既に悪いサイクルにはまっている。牧師は信者の出席しか見ていない。ゆえに外部者にわかりやすい礼拝にしようというマインドに欠けている。ここに思考の転換と文脈化がない限り外部者は決して来ないのである。従い、信者に未信者を連れて来ようと思わせる最良の方法は、あたかも多くの懐疑主義者、傍観者、未信者軍団がいるという前提で礼拝を持つことだ。いかにもいるような礼拝を続けるなら、実際に彼らはそこにいるようになる。

<1> 礼拝を未信者にわかるようにする:
一般の考えとは違い、我々の目標は、未信者をいい気持にすることではない。未信者は、Tコリント14:24-25,使徒2:12,37にある通り、「自分が罪びとであることを突き付けられ」「心の秘密が暴かれ」「驚き、当惑し」「心が刻まれる」のだ。そのために我々のすべきことは、礼拝を彼らが理解できるようにし、彼らの心の秘密に迫ることだ。だから我々は常に、「彼らが信じないということはどういうことなのか」を覚えておく必要がある。その上でどう対応するのか。やり方は次の通りだ。
1) 礼拝においてわかる言葉で説教する・・・クリスチャン語をつかわない。注釈、説明をつける。未信者 が持つであろう質問に答える形で説教する。信仰に戦いや疑いを持つ人の言葉を聞く。
2) 流れに沿って礼拝を説明する・・・専門用語を外して、礼拝の一つひとつを1−2語で説明する。「礼拝とは何か」、また悔い改めの祈りは「屈服」でなく「解放」だと説明する。
3) 新来会者を直接歓迎する
4) 礼拝にハイレベルの芸術を使う・・・良い芸術は人をひきつけ凝視させる。すぐれた美学は外部者を巻き込み、二流の芸術は外部者を排除する。
5) あわれみと正義の行いを祝う・・・外部者にとっては教会の言葉より行為の方が納得を得るのに大きな要素となる。みことばだけの教会に対する外部リーダーたちの見方は、コミュニティーにとってはコストであり、価値の低い組織だ。が、もし効果的に「あわれみと正義」のミニストリーをしている教会なら、外部者はこう言うだろう。「この教会なしにはやっていけない。この教会は、多くの価値をコミュニティーに注いでくれている。もしこの教会がいなくなったら、我々は税金を上げなければならない」と。伝道的な礼拝は、行為のミニストリーのための献金を強調し、レポートや証し、祈りによって共有し、祝うべきだ。これは、福音が人の心にどう働き、また人を世に対してどれほど「注ぎだす生活者」に変えていくかを示し、未信者を引き付ける役目を果たす。
6) 福音をクリアーにするために礼典を表に出す・・・洗礼式は伝道的な礼拝で大きな意味を持つ。個人的な証しと、質問を受けつける機会を持つのもよい。受洗者の感動的な楽しい証しは洗礼の意味を明らかにする。そのあとの聖餐式はさらに、悔い改めを促す機会となる。また今日あなたは神の前で正しいかという棚卸の機会でもある。
7) 恵みを説教する・・・もし日曜礼拝の説教が伝道中心なら信徒を飽きさせるかもしれない。逆に教育中心なら未信者を飽きさせ混乱させるかもしれない。しかしもし私たちの礼拝説教が、恵みによって救ってくださった神を崇めることを祝うものなら、信者に対しても未信者に対しても、チャレンジと指導をあたえることになるだろう。

<3>人々をコミットメントに導く:
歴史的に多くの説教者が、伝道的な礼拝の直後にミーティングを持つのは効果的だと言っている。罪を示された求道者は、神の臨在を感じ、その時が最も心を開き教えられやすい状態になっている。スモールグループに誘ったり、次の日曜礼拝に来るように言うのには多くの条件が伴うが、彼らも「驚き、当惑」しているかもしれず、まさに「鉄は熱いうちに打て」とある通り、神の導きを信じて語り掛けよう。神の支配を知り、悔い改めは我々の雄弁によるのではないとわかり伝道する時に、我々はリラックスできる。

(4)人々を神に結びつけるミニストリーのまとめ:
我々はどのように礼拝の形式を選ぶべきか。我々はどう人々を神につなげるのか。我々はバランスを捜す必要がある。それは我々の必要と思うものを満たしてくれる、いわゆる「コンシューマーメンタリティー」や、私たちの好みに合ったものが聖書的にも唯一の正しいものとかんがえてしまう、自己中的なバランスではない。そうではなく、神は私たちに特別に偉大な自由を与えてくださった、その事を認めつつ、我々は聖書が礼拝についてどう語り教えているかを知り、謙遜に我々の礼拝の空白を埋めていくのである。求めるべきバランスは我々自身の文化と教会との関係、我々の個人的な気質、好みとの関係である。さらに、我々は意図的に伝道的、かつ教育的なものが生じる礼拝をつくって行かなければならない。もし福音中心、かつ彼らのわかる言葉に徹するなら、毎週の礼拝は、未信者への伝道という意味でも、信者への教育という意味でも、両方に効果的でありうるのだ。

X.【人々を互いに結びつけるミニストリー】
(1) 福音はコミュニティーを作る
福音はコミュニティーを作る。それは、自分の敵のために死なれたお方を指しているから。だから自己中心的でなく、仕える関係を作り出すのだ。それは恐れとプライドをとりのぞくので、外の世界ではやっていけなかった人たちも、教会内ではやって行けるようになる。それは我々をきよさへと招くから、神の人々は愛の絆に生き、又互いに責任を負い、訓練し合う。ゆえに福音は外の世界とは全く違う共同体を作り上げるのである。

(2) コミュニティーと私たちの証し
コミュニティーは私たちの証しの性質と、宣教におけるつながりを形作る。この世における本当に効果的、かつ実りの多い宣教の秘密は、「コミュニティーの質」である。逆に個人のもつ例外的キャラクターは、キリスト教のリアリティーを証明するものではない。無神論などの他の宗教でも、すごい道徳家などの個人的ヒーローは生み出し得る。そのような個人は私たちを刺激はするが、それらの個人はただの異常なヒーローであって、他の人たちを寄せ付けないレベルだということで終わってしまう。無神論や他の宗教が生み出せないのが、私たちが福音から得ることのできる「愛の共同体」なのだ。実際イエスは、世は私たちの深い一致を見て、神がキリストを愛したと同じく私たちをも愛しておられることを知ると言っている(ヨハネ17:23)。イエスは、人々が信じる主な道が、コミュニティーの中ある彼らのハイレベルの生活を見ることだと言っている。そこに最大の違いがあるのだ。ああこれがキリストの愛を知っている者の姿かと。
私たち自身も、私たちのキリスト者らしさは、信仰者としての個人の生活を通して示されると思いがちだが、それと同様に、共に生活する中で、その協力体制を通して示すことの方がさらに本質に近いのである。

(3) コミュニティーと私たちの性質
キリストは、学びと実践のコミュニティーを作って来た。そこでは議論や、会話や、適用を通して真実な働きをする時間が山ほどあった。この事から私たちは、アカデミックな場ではなく、スモールグループや、友人との間で行うことがさらに効果的な学びだとわかる。また元来私たちの性質は、初期の社会的コミュニティーによってメインに形作られてきている。ご飯を食べ、遊び、会話し、相談し、勉強する仲間だ。ゆえに聖書の「お互いに」のフレーズはキリスト者共同体の局面ととらえることができる。教え合い(ローマ12:10)、受け入れ(ローマ15:7)、忍耐し(コロサイ3:13)、赦し(エペソ4:32)、訓戒し対決せよ(ローマ15:14)などだ。弟子訓練を論じるなら、教会生活、クリスチャンコミュニティーに深くかかわっていくこと以上に大切なことはない。

(4) コミュニティーと行動
コミュニティーは、我々の行動をきめる道徳力、有形無形の法則を形作る。十戒は、シナイ山で国々の光となるべき「もう一つの社会」として彼らを形作るために示された。またローマ12:1−2の「あなたのからだを生きたそなえ物として奉げよ」は、よく個人のこととして理解されるが、実は私たちを共同体の一部として奉げよという意味なのだ。同様に、イエスが「山上の町」(マタイ5:14)として召しているのは、山上の説教がすべて新しいコミュニティーの描写であって、個人的な倫理のガイドラインではない。聖書の道徳原則は、ほとんどが個人のフォローすべきコードではなく、新しいコミュニティーが霊的な愛ときよさの果実を結ぶための指針だった。

 しかしこれは驚くに及ばない。単なる常識に過ぎないからだ。なぜか。それは、私たちは経験上、一人で神に喜ばれる生活をすることの方がはるかに難しいことを知っている。私たちは、自らを人に対する責任というところに置かない限り、常に繰り返し間違いをおかし転落してしまうからだ。おまけに聖書に書かれている指示は、頭に来るほど一般的だ。私たちの個別の状況には全くそぐわない。それはイエスが、我々に、これらをどうコミュニティーに適用していくかを決定するように期待しているからである。例えば、貪欲に対する数えきれない警告が新約聖書にはある。が、姦通と違って(これはわかりやすく明らかだが)、貪欲は定義しづらい。自分のことに金を使いすぎているなんて、誰も気づかないし、思いもよらないからだ。つまり他のクリスチャンに語らない限り、私たちがそれに気づくことはない。この悪習慣(言い換えれば偶像崇拝)との戦いは、コミュニティーにおいて初めてなされる。貪欲はビジネス上の無慈悲という形で現れるし、それを鏡のように見せつけられるのがコミュニティーにおいてだ。それによって我々は、自分の信仰と中身が一致しているかどうかを的確に知るようになる。

(5) コミュニティーによって成長し神をもっと知る
コミュニティーは我々の真の霊性のキーとなる。それは互いの学びによって成長し、我々は神を知るようになるからだ。CSルイスは、親友チャールズとロナルドのことをこう語った。これはチャールズが死んだときのルイスの言葉だ。「私の友人一人一人の中には、ほかの友人によって初めて引き出せるものがある。私自身には、その人全体を引き出すだけのキャパがない。彼のすべての様相を照らすために、私は常に私以外の光を求めている。チャールズが死んだことで、わたしは二度とあのロナルドの「キャロラインジョーク」に対するリアクションを見ることができなくなった。ロナルドからの何かというより、チャールズがいたことで、私も私自身になれた。が、今はチャールズがいないので、ロナルドについても喪失感がある。それゆえ、真の友情は、嫉妬の最も少ない愛だ。2人の友人の中にもう一人が加われば、2人の喜びが増し、4人目が加われば、3人の喜びはさらに増す。私たちは、その友人をシェアする他の友人が増えれば増えるほど、もっと持つことができる。その意味で友人は天国の栄光の写しである。というのは、すべての魂は、自分たちのやり方で主と会うが、いったん主と会えば、その後は主の見方でそれ以外を見るようになる。だから「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」(イザヤ6:3)とセラフィムが互いに叫んでいたのだ。我々が天のパンを互いに分ける時、分ければ分けるほど、我々はお互いに持つのである。」ルイスは、人間はあまりに豊かで多面的で、一対一では知り尽くすことはできないと言っている。たとえ誰かを知っていると思っていても、一人の人間の持っているすべてをあなた一人で知ることはできない。その人を他の人とともに知って行くのだ。もし人についてそう言えるなら、神を知ることについては、なおさらそうだ。イエスのことを、あなた一人では十分に知ることはできない。

(6) 福音とコミュニティー
コミュニティーを作ることは、自然でもなく簡単でもない。今の文化的状況では特にそうだ。それをするには意識的な頑張りが必要だ。しかし我々の武器は、福音そのものである。ボンヘッファーは、人とのコミュニケーションを阻み、透明性や愛や互いに仕え合う心をブロックするのは、我々のエゴだと言った。しかし、福音が我々を変えるとき、我々は彼らのために彼らと関わる者となるのだ。それは我々をあらゆる人の前で謙遜にし、我々は恵みによって救われただけの罪びとだと教えてくれる。と同時にそれは、我々が愛されていることも教えてくれる。それゆえ我々はすべての人の前で大胆になるのだ。そして我々は人のことも楽しむことができるようになる。それは我々のセルフイメージが、もはや人との比較で決まるものではないからだ(ガラ5:26,6:3-5)。我々はもはや自分の価値を、人に評価してもらうことで得るのでは無く、また人に権力をふるうことで感じるのでもない。我々は人の是認、承認に頼りすぎることなく、人のコミットや人との関係に恐れを抱くこともない。福音は自信や自己蔑視の両方から自分を解放し、逆に我々に大胆さと謙遜さを同時に与えてくれるのだ。

 つよいコミュニティーは、強力な共通の経験を通して形成される。人々が洪水を共に生き延びたり、共に戦いを終えたときのように。彼らがそれを潜り抜け、通り過ぎた後は、彼らの関係は、深く永遠のものとなり、血よりも濃い関係となる。もし我々がキリストの完全な恵みを、悔い改めと信仰によって経験したなら、それは、我々の人生の中の根本的かつ基本的な経験となる。それがたとえ全く別の文化、種族、社会層の人たちであったとしても、我々はその中に命と死の経験を見るのである。キリストに在って、我々は霊的な死と、新しいのちへの復活を経験しているのであり(ローマ6:4-6,エペソ2:1-6)、この共通の経験により、私たちは新たなアイデンティティーを分かち合うのだ。

 ペテロは「主のもとに来い。あなたは生ける石だ。人に捨てられ、神に選ばれ、霊の家に築き上げられた」(Tペテロ2:4-5)と言っている。石工により完璧に形作られた石の様に、建築家は石と石をつなぎ合わせていく。そしてそれは堅固な美しい神殿となる。もし私たちが、神の恵みを知っている誰かに声をかけるとしたら、彼らの根っこのアイデンティティーが、元の家族や階級でなく、キリストに在ることを知るだろう。結果的にキリストは、以前我々には克服できなかったバリアを克服する新しい関係をつくってくださったのだ。我々は「コミュニティー」を、何かのルールに従うべきものを単純に思ってしまいがちだ。「分かった。聖書を読まなければならないのね。祈って、性的にも純潔を守って。その上でフェローシップに行けばいいのね」と。しかし、コミュニティーは、キリストが「世ではこうあるべき」と言われた通りのやり方で日々過ごすことだ、と思えばよい。コミュニティーは福音についての単なる説教以上のものだ。それそのものが福音の宣言であり、表現なのだ。それは「キリストに在る自由」という福音のデモンストレーションでもある。それ自身が福音の一部であり、それはキリストが、十字架の上であなたのために勝ち取ったもの、つまり神の人たちとともに歩む新しいいのちなのだ。以前は、あなたは他の人から隔絶された者だったが、今や真に近い者と変えられたのだ。

Y.【人々を都市に結びつけるミニストリー】
福音は、クリスチャン同士を結び付ける以上のことをする。それは、我々を、まだ神を知らず、私たちの助けを必要としている人とも、あわれみと正義のミニストリーを通じて結びつける。まず神学的にはみことばと行為は車の両輪だ。神の創造が体と霊の両方だったことはわかるが、イエスの復活から、贖いもその両方だとわかる。イエスが最終的にもたらす完璧な救いは、すべての罪の影響からの自由を含む。それは霊的な影響のみならず、肉体的、物質的なものも含むことが分かる。イエスご自身がみことばを語るのみならず、食物も与えられた。最後の御国は、すべてのものに対する正義のなされる国である。クリスチャンは、みことばをもっても福音を語れるし、あわれみと正義の行為を通しても語ることができる。そしてイエスへの信仰を促すことができるのだ。これらの福音的な二つは同時に行えるし、隣人に福音的に接することは福音を語ることでもある。

(1) キリスト者は隣人を愛すべきだ
われわれは隣人といえば、同レベルの生活人を思い浮かべる。が、レビ19:34でも、ルカ10:25-37(よきサマリア人)でも、そうではないと。嫌いな人種、別の信仰をもっている人でも、あなたに触れる人、持てるものに欠く人はすべて隣人だと聖書は説く。我々の隣人への責任は、愛と正義も含むと。これらの2つは聖書の中で常に結びついている。神が隣人を愛せよというとき、それは騙すな、不公平をするな、正義を意識して行えということを、不正の裁判官の例話(ルカ18:1-8)などを通して聖書は一貫して説いている。

(2) キリスト者は仕えるべきだ
当時は食卓で仕えるのは屈辱的な仕事だと考えられていた。しかしイエスは、「私は仕える者の様にしている」(ルカ22:27)と、この考えと全く逆の、クリスチャンの偉大さは仕えることにあるという真理を説いた。

(3) キリスト者は正義を行い正しく生活すべきだ
ウソや偶像は悪いものの一部、目に見える氷山の一角にすぎない。悪とは、氷の下のもっと大きな見えないものを指しており、それは、多くの収入をビジネスで得ているがそこで働く従業員には少ししか払わないとか、自分の家の前の道の雪はどけるのに、すぐ隣の老人の家の前の道はほったらかしにするなど。つまりこれらの、自分のメリットを優先して他人のメリットを犠牲にするすべての行為を言うのだ。ここからわかるのは、「正義」とは、日々の活動そのもののことを言う。それは法廷でだけ追い求めるべきものではない。正しく生きるとは、常にコミュニティーの必要を認識しつつ生活すること。それは他人に利益を与えるために、自分の利益に目をつぶること。これはすべての生活の分野に通じることである。

 一人のCEOがヨブ29:14「公正は上着、かぶりもの」を引用していたが、この公正は、法的なもののみならず、従業員や、この会社が置かれているコミュニティーに対する公正さ、バランスをもさしているはずだ。銀行のマネージャーのやっている「法に対して正しい」ことは、聖書によれば不正である。旧約によれば神の正義は、食物と隠れ場を、それを少ししか持たない人に分け与えることだからである(イザヤ58:6-10)。聖書では、人の基本的な必要に応じることは、「あわれみの行為」と呼ばず、「正義の行為」と考えた。つまり当然為すべきことでありオプションではないということだ。私たちクリスチャンは、すべての私たちの持てるもの、栄光と持ち物は、神からのギフトだと知っている。だから私たちがもし得た利益を還元しない、あるいは貧し人に厳しい態度をとるとしたら、それはあわれみ不足の罪ではなく、不正を犯していることになるのである。

(4) 愛し、仕え、正義を行うことのまとめ
キリスト者は恵みに応答して正しく生きるものだ。最初、キリストの救いが全くの恵みであり、我々を正義へとかりたてると聞くと、ロジカルでないと思うかもしれない。が、聖書はそうだと言う。レビ19:34「寄留者を同国人と同じく愛せ。それはあなたがたも寄留者だったから」と。イスラエル人も昔はエジプトで迫害されていた寄留者だった。彼らは自分には自分を自由にする力がなかった。が、神が、彼らを解放し自由にしたのだ。ゆえに今や自分より力も持ち物の少ない者達を、隣人として取り扱い、愛と正義を示すのは当選だと。ゆえに我々が正義を行う、神学的、かつ動機的なベースは、恵みによる救いにあるのである。

Z.【人々を文化に結びつけるミニストリー】
(1)仕事は主観を排除してきた
キリスト教国の時代、教会は信徒に対する訓練をして来なかった。それは周囲に非キリスト教的要素がなかったからである。しかし今の教会は、非キリスト教的文化に大いに囲まれている。ゆえに彼らは仕事、生活面で、いかにキリスト者として対応するかの、準備や教育の必要に迫られている。我々の基本的な文化は「事実に価値を置く」文化だ。科学で証明可能なものが事実であり、そこにのみベースを置く。逆に宗教的、超越的、主観的なものは、公的なところに持ち込むなとされる。よって、キリスト者は自分の信仰にシールをして仕事に臨むことが普通になっていった。が、それでは嫌だというキリスト者がいる。そういう人たちをサポートし、福音のすばらしさや、違いや、それゆえの仕事への責任感等を、いかに仕事を通して表していくかを、ここでは考える。

(2)福音が我々の仕事を形作る
二元論はギリシア哲学の、霊はOK、肉はNGの考えから来たものだ。その後啓蒙運動の作り出した区別は、公の場での客観的事実と、プライベートの場での主観的価値と霊性であって、それは二元論の子孫とも言える。この区別が、「教会のやることはよい」「世のやることはダメ」の二元論を生み出した。が、この考えの中では、「真に神を伝える最良の方法は、ミニストリーの直接のかたちを通してだ」となる。そしてこの二元論の考えが、キリスト者を、文化的発信源として影響力を持つ分野から実質追い出してきてしまった。センターチャーチ神学は、福音中心主義であり、それは教会内へのミニストリーしかり、また文化とのかかわりにおいてもである。しかし聖書は、私たちがキリスト者として、ビジネスにどう取り組むべきかについては、教えてくれていない。そのためには、思慮深く、世の考え方に関わることが必要で、しかしそれは難しいし恐ろしい・・・となり、その結果再び二元論に戻ってきてしまうのだ。

 二元論の逆は、「世界観キリスト教」である。キリスト教は、「わたしが個人的な霊の救いを得るために私がつかんでいる信仰」という単純なものではなく、それ以上のものだ。それは世界のすべてのものを理解し解釈する独特な方法でもある。それは人の性質、正邪、正義、美、目的、科学の発見、技術、仕事について独特の見方を与える。もし私が、世界は造られた、そしてやって来た、そして贖われた、それも個人的な三位一体の造り主なる神に在ってとなると、わたしのこれまでの基本的な問題にかかわる考え方が独特のものになって当然だ。そして、それらの視点は、私が日々生きる生き方まで決めるのだ。

 聖書は私たちの仕事のすべては神に関わっていると教える。また逆に、神は私たちのすべての仕事に関わっておられる。つまり福音が、我々の仕事の動機、やり方、方法を形作るのだ。そして教会は、クリスチャンが、働きながら、その優秀さとキリスト者としての独自性を磨き、自分の住んでいる文化に味付けすることで貢献しつつ、成長していく姿を見たいと願っている。そのため教会は、キリスト者自身が、どのように福音が自分たちの仕事を形作り導くかを見ることができるように、次の方法で助ける必要がある。
1)信仰は、働くモチベーションを変える・・・主人の目の前だけで働くのでなく、心から。また金や成功に自分のアイデンティティーを置かないようにする(コロサイ3:22-23)
2)信仰は、仕事の概念を変える…金や権力のための仕事観を捨て、単純作業も神のコミュニティー建設に仕えていると知る。すべては神の栄光のための働き。
3)信仰は、仕事場での高い倫理観を与える・・・法律上合法でも、聖書の価値から外れていることは多い。それを高いレベルで修正していく。
4)信仰は、私たちの働きが、どの方法で為されるべきかというヒントと与える・・・すべてのコミュニティーは集産主義のマップで動いている。神と恵みが、その文化・マップの中心に無い限り、ほかのものが最終的な価値となり、最後に自分がその偶像に破壊される。
キリスト者の医者は、ある処方が金にはなるが長い目で見て患者のいのちにプラスにならないことに気付くかもしれない。キリスト者のマーケティング担当は、ある調査のパターンが事実をゆがめ、人の情緒を操り、社会を悪い方向へ引っ張っていくことに気付くかもしれない。キリスト者のビジネスマンは、短期的には利益を上げるが、長期的には会社の健全性を害するやり方を見つけるかもしれない。また自社の利益が社員や客やコミュニティーの他の人たちの利益を損なうことで成り立っているのを見るかもしれない。そしてほとんどの仕事場において、信徒は、無慈悲な、また競争100%の世界に明け暮れるわけだ。キリスト者の世界観は、そんな世界における支配的な指導法ややり方に対峙し、それに変革をもたらすための方法を示唆する。では教会はそれをどう助けるのか。ここでは3つの方法が提示されている。それを次の(3)(4)(5)で示す。

(3)working accountably(説明責任を持って働く)・・・職業別の霊的成長の場
これは、教会は基本的な恵みの手段を提供する必要があるということだ。つまり祈り合い、互いをケアし、ミニストリーを行い、説明責任をもち、コミュニティーでの学びをするという、相互牧会の場が必要ということ。それも時間帯や生活条件の近い、同業者の間で、である。が、ここには2つの問題がある。同業者であっても、これまでの40時間労働、週休二日のパターンは減っており、余暇は旅行もしたいし、シーズンでシフトが変わるなど、定期的な従来の霊的育成の場が持ちにくい環境にあることだ。従いクリエ―ティブな方法を考えて、この育成の場を運営する必要がある。2つ目の問題は、それぞれの職業で、独自の霊的、道徳的、倫理的問題、ジレンマ、誘惑などがあり、それを話し合う必要があるということだ。これを話し合い出すと時間がかかるので、一般的な、又プライベートな問題に限定したいが、逆にそのような特殊な励ましが得られなければ、ドロップしてしまう人が出て来ることも事実だ。従い同業のサポーター、メンターは不可欠だ。特に同業縛りのグループを、「ボケーショナルフェローシップ」とリディーマー教会では呼んでいる。あるボケーショナルフェローシップでは、スピーカーの話を聞いて、トピックについて話し合うことをしている。信仰告白をまだしていない未信の同業者が、メンバーの思慮深いディスカッションに惹かれてメンバーになることや、自分の尊敬する先輩の話を聞きたいとやってくる場合もある。

(4)working distinctively(違いを出しながら働く)・・・世界観の発展とトレーニングの場
我々にとって、神のために働くというのは明確なビジョンだ。しかし我々には、キリスト教文化もなく、仕事上の目標がキリスト教的でないところで、いかに働くかがわからないという問題がある。ゴスペルシンガーがヘンデルのメサイヤを歌う時はキリストのために賜物を使うが、それ以外の彼の仕事の中で、福音がどう働き、仕事を差別化しているのか。彼はクリスチャンとしてはパートタイムのシンガーなのか。それとも全体的なクリスチャンシンガーで、神によって毎日形作られているか。ほかのシンガーと彼は、仕事上どう違うのか。歌う歌が違うから違うのか。自分のキャリアアップが、彼の本当のモチベーションか。それとも、彼が創造物のすばらしさを、また人間の意味深さを、自分の最高の芸術で表わしたいのか。彼の芸術が常に(たとえ懐疑主義に人に対しても)、世界は偶然できたのではなく、目的をもって造られ、首尾一貫していて美しいと、自らの技術とコミットメントを通して証ししているか。似たようにMBAの女性は、慈善事業のNPOの役員だから、あるいは教会の理事だからという理由で自分はキリストのために賜物を使っているのだと考えるかもしれない。しかし大切なのは、それ以外の部分でいかに福音が自分の仕事を形作っているかだ。彼女は、無宗教の人と同じ目線で会社の利益を見ていないか。自分のビジネスを切り盛りする中で、常に、すべての人は神のイメージで作られており、すべての人は神が自分の息子を捧げたほどの大切な存在だということを覚えているかということである。

(5) working excellently(最高の働きをする)・・・メンタリングと文化創造の場
上記のworking accountably(説明責任を持って働く)と、working distinctively(違いを出しながら働く)の両分野でうまくいった人は、今度はworking excellently(最高級の働きをする)となれるよう、お互いをサポートし、助け合わないといけない。このサポートは、メンタリングの関係によって成り立つ。彼らと同業で、経験豊富な先輩が、御霊に動かされて、その業界に新しく入った人や、まだ信仰的に新しい人にメンターとして接していくのだ。ここでは、「協同ベンチャー」という形で、新規会社やNPOを立ち上げる。また芸術プロジェクトや新刊雑誌を始めたりもする。リディーマー教会では、「起業フォーラム」で、教会が音頭を取って、年一回ビジネスプランについてのコンペを行う。それはNPOと営利部門の2つで、ベストプランナーを表彰する。プレゼンテーターは、福音がいかに彼らの「信仰と仕事」をマッチさせ、このプロジェクトに至ったかを証しする。

このworking excellently(最高級の働きをする)を最後に持ってきたのは、最初のw-a, w-dをこなさなければ、ベンチャーとしてよい考えに至らないからだ。我々はクリスチャンビジネスと聞くと、ボーンアゲインしたクリスチャンを雇い、おそらく毎日事務所でバイブルスタディーをする姿を想像する。が、宣教と経済と人事政策など、そういったすべてが神学的に練られたビジネスに向き合うということは、まず想定されていない。「クリスチャンアート」の多くの作品は、実際は単に芸術家を世から引っ張り出して、クリスチャンのサブカルチャーに連れ込む手段となっている。文化創造の働きは、クリスチャンが一緒になって、この悪い大きな世界から飛び出すことを意味しない。かえって「一緒に」働くのだ。ノンクリスチャンも含めて。それも世に仕えるために。この働きは二元論から解放されたクリスチャンがもっと起こされてこないと始まらないだろう。

 見てきたようにクリスチャンは、自分たちの仕事全体に対し、2つの間違いを犯して来た。1つは、仕事上、信仰を封印してしまっていることだ。そして他の人々と同じ目線で、同じ価値で、働いているということ。一方で彼らは、大胆に、又不器用に、自分の信仰を同僚に伝えている。が、多くの場合、福音から得られる恵みや知恵を仕事で関わる人たちに示すことができずにいる。教会の大切な役割は、信徒たちに、福音が示すことを通して物事を考えるように勧めること。そして、芸術、ビジネス、政治、マスコミ、娯楽、学究の各分野でそれが試されるのだ。我々は創造的な方法で、彼らに霊的な養いの場を提供する必要がある。それによって信徒が、他の信徒にaccountableに関わることができるように、また彼らの信仰告白に対してもaccountableに関わることができるように。我々のこのw-e(working excellently)は、我々の信仰に対する信用を得るのに不可欠な方法だ。もし我々の信仰が見掛け倒しだとしたら、我々の口頭でする証しは、かえって我々の信仰に対する世間の評価を下げるだろう。もしキリスト者が、文化のど真ん中で、自分の仕事を素晴らしい形で行うなら、それも他と違うやり方で行っているなら、我々が今生活しているのとは別の文化が、最終的には生じて来るだろう。

 ティムケラーがよく聞かれる、「キリスト者は文化創造に関わるべきか」という質問がある。彼の答えは「文化創造はできない」である。しかし彼は、「文化刷新」の言葉は嫌いではないという。というのは、中世の修道士を見ていると、彼らは偶像の都市から脱出し、人里離れたところに学校を建て、大学をつくり、病院を建てた。彼らは地域の経済を変容し、彼らの新しい働きを通して弱い人たちをケアしてきた。彼らは自分で偶像の文化を変えようとはしなかった。が、結果的に彼らは福音によってそれを変えたのだ。彼らは自分のために何かをしたわけではなく、ただ他の人たちのために働いた。キリスト者は今、福音に導かれてコミュニティーのために努力すべきだ。その時、私たちは古(いにしえ)の修道士たちが見たと同じくダイナミックなものを、再びこの世界に見ることになるだろう。
                     
[.まとめ
CSルイスは、「真の友情は、嫉妬のない愛だ」と言っている。「2人の友人にもう一人が加わると、2人の喜びは増し、また4人目が加わると、その3人はさらに喜ぶ。私たちは、その友人をシェアすることのできる別の友人が加われば加わるほど、更にその友人と深くなるのだ。それは私たちが、天のパンを分けるなら、分ければ分けるほどパンが増えるのと同じであり、その意味で、友人は天国の栄光の写しである。」と。私たちが世に示すべき神のかたち、天国のかたちがこれなのだと教えられる。キリストにあるコミュニティーは、最終形ではなく、そうなのだがそれだけではなく、我々の福音のむすぶ実のスタートでもあって、本質、そしてここにこそ、天国の先取りの姿があるのだ。そのコミュニティーを私たちが今働く職場に広げること、サブカルチャーで終わらせず世の真ン中にこの天国文化を持ち込むこと、その真ん中で王位につかれる主を先頭に立って崇めること。この私たちが見る天国のプレビューを、今の世にあって私たちの愛する友人たちと共有し、ともに感嘆する人を増やす、目の前の一人をその世界に愛をもって招き入れ栄光の民とする、そのビジョンこそが都心ミニストリーなのだと教えられた。
詩篇133:1「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きるとは。」
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2018年11月24日

宣教的教会をさがして(本文p251〜289)

T.真に宣教的とは
「真に宣教的とは」は、我々に共通の問いである。「宣教的」という題で多くの本が出版されたが、その使われ方は皆違っていた。そして混乱があった。この時代の前にはMISSIO DEIのフレーズの流れで、プロテスタントメインラインとエキュメニカルの世界で、さかんに「宣教的」という言葉が用いられた。ところで、このMISSIO DEIは、「世界における神の行動」を表すために鋳造された言葉だ。つまり神は世で活動的であり、全被造物をあがなうために働いており、この務めに参加することが教会の役目だというのだ。このMISSIO DEIは三位一体神学をベースとしている(by ボッシュ)。過去「宣教」は、救済論をベースに考えられたり(つまり魂を救うためのもの)、あるいは教会論(教会を拡大するためのもの)として論じられたりした。が、MISSIO DEIは神の本質から引き出されたものであり、三位一体の教義に立つべきであって教会論や救済論ではない。三位一体は送り出すのだ。父は子を世に送り、父と子は聖霊を送った。そして今や聖霊が教会を!である。神は、宣教のために「送る」だけでなく、自らすでに出ておられ、教会はそれに加わらなければならない。これは「教会は宣教もする」ではなく、教会そのものが宣教のために存在するのだ。

「神は政治で働いている。だから、神が政治を通して働くのを見て、それをフォローせよ」とメインラインやエキュメニカルは唱え、人権を謳い、左翼の働きに同調した。それがおかしな結果を生み、毛沢東語録が新しい聖書と呼ばれた。そして、「教会は社会的なサービスほどには、人の必要に応じてくれない。教会は政党ほど、あるいは政治団体ほど世界を変えられない」と教会はいよいよ「不要」とされた。が、そんな教会の「非宗教化」を批判し、ニュービギンは@悔い改め、A教会の成長、Bキリスト教共同体の3つの本質は大切であり、宣教の中心だと唱え、宣教の目的は質と量において教会が成長することだと訴えた。と同時に「宣教的神」MISSIO DEIも大切だと。だから教会は成長せよ、それもサービスをし、また世の正義と戦いつつ!と。

U.ニュービギンとボッシュ
ニュービギンは宣教をこうも言う。@世で召命を受けることを通して信仰と仕事に集中せよ、Aしかし福音の聖書解釈の面から教会も大切だと。愛、正義、平和はキリスト教のカウンターカルチャーの象徴であり、その証しは多元的社会に切り込むにあたって最初の段階で大切だというのだ。
一方ボッシュは、MISSIO DEIの中心概念を改めて、「神の宣教とは被造物の回復であり、教会はそれに参加するように召されている」と述べた。そして「神の普遍的な統治のもとに人々を連れ戻すこと」が宣教だとした。
これらの両学者の書から、MISSIO DEIの考え方が1990年代半ばから大きく進展した。それはリベラルの教会にあった「非宗教化」を避けようとしたものだ。それをおおう神の物語は、「神は宣教の中におり、今もすべての被造物を新たにしようとされている」と。その中で新しい観点が強調するのは、「キリストは主であり、そこから来る世の希望を公然と主張する」という点であり、そのために必要なのが、悔い改めと教会の成長なのだ。
この新しい、MISSIO DEIの名誉回復した考え方は、増加する「ポストキリスト教文化」にどのようにかかわるべきかという問いと格闘した結果だったが、メインラインやリベラル以外の多くのクリスチャンの注意を引いた。

V.今日の宣教的教会の動き
グダーが、「宣教的教会」を1998年に出版した時、そのベースはニュービギンとボッシュの発展させたMISSIO DEI理論に立っていた。が、この本もジレンマを提示していた。文化はすでにキリスト教から離れ、教会は今や現代社会という宣教地に立っている。しかし一方で教会は、現代文化のとりこになっている。従い教会は自己改造し、文化に取り組む新しい方法を捜さなければならないと。
ところで、そのような環境において論じられる「宣教的」には、次の4つの流れがある。
@宣教的であるとは福音伝道的であること
A宣教的であるとは受肉的であること
B宣教的であるとは文脈的であること
C宣教的であるとは互恵的、地方自治的であること

@宣教的を福音伝道的ととらえるとは
福音伝道者として海外宣教にコミットすることとほぼ同義語的に考える教会がある。がこれは、「MISSIO DEIがすべての被造物と、現代文化のとりこになった人々の回復である」という視点を失っている。
A宣教的イコール受肉的であるというのは
これはキリスト教国のモデルへの批判の一つだ。以前は魅力的な教会を模索したが、これはノンクリスチャンが来てくれる教会という意味で、もはや古いモデルであって、逆に「魅力的から受肉的へ」が今のスタイルだ。キリスト者コミュニティーが近隣で正義と平和のために働き、次第にノンクリスチャンをその有機体に巻き込んでいく。通常この発想は、非正規のハウスチャーチの増殖につながって行く。
B文脈的こそ宣教的とするのは
現代社会の現実とすべてのミニストリーを紐付けていくためには文脈化が必要だ。この考えは、先の2つの「福音伝道的」「受肉的」を含む。そして地域に入り、共同体のサービスに入って行く。が、このままではサブカルチャーであり続け、これを促進するためには、この次の段階に入って行かねばならない。
C互恵的、地方自治的とは
このグループは先の3つに同意、支持する。またすべてのクリスチャンが宣教師だと考える。教会は共同体の生活にもっと、受肉的にかかわって行くべきだという考えだ。また、文脈化の大切さと、もっと文化にかかわって行くべきことを固く信じている。しかし他の3つはMISSIO DEIの持つ暗示を十分には反映していない。MISSIO DEIは神学的にも実際的にも、もっと注意深くやり直す必要があるのだ。
このアプローチを採用する人は次の2つの結論に至る。1)もし神がすでに宣教を行っているなら、教会はあえて今さら人を動員して教会独自のサービスに従事させるべきでなく、すでに神が世で行っていることに応答していかねばならない。「この近隣において、神はどういう働きをしているか」こそが、宣教的教会が繰り返し問わねばならないquestionだ。宣教的教会は、共同体の声に耳を傾け、「神の決意に驚く」ことにもっとオープンになるべきだ。そして世が知るべきことを単にアナウンスするのではなく、教会自身が、神が今なさっていることを聞き、学び、それに巻き込まれていくのだ。2)啓蒙運動のもたらす個人主義に対抗すべく、教会は、罪、宣教、救いという、地域と地方自治体内におけることばの再定義が必要だ。罪はまず神のきよさに対抗するものと語るのでなく、水平的に、罪は自己中心、暴力、不正、プライドを通して、世にある神のシャロームを壊すものなのだ。十字架は、我々の罪に対する神の怒りをなだめるための場所ではなく、イエスの死により、世の諸力がいったんはイエスの上に下ったがイエスに敗北した、その契機だった。そして宣教は、個人を神の前に正すことではなく、彼らを組織の一員として新しい共同体をつくり、社会構造をあがない、世をいやすという働きにおいて、神のパートナーとなることなのだと。@〜Cのアプローチに共通するものは何か。皆、この「宣教的教会」の言葉を避けてきた。が、多くのクリスチャンが今日、改めて「宣教的教会」を求めている(この言葉を使うかどうかは別にして)。保守的な教義にこだわる人は、@「福音伝道的宣教」に留まる。が、徐々にA「受肉的」B「文脈的」に進み始める。リベラルとメインラインの信者はAとBに見られるが、C「互恵、地方自治的」に惹かれる傾向にある。この4つはリアルで重要な違いを持つが、同時に大切な共通点もある。

W.教会の文化的捕虜状態
この「受肉的」「文脈的」「互恵、地方自治的」な流れから、教会が文化のとりこになってしまっていることがわかる。さらに福音のメッセージは文脈化され、わかりやすく、かつチャレンジングでなければならないとわかる。多くの人が、無宗教の人たちや福音主義教会にある「啓蒙思想から来る個人主義」にチャレンジすることで、文化のとりこ状態から逃れようとしている。現代的な考えが、宣教を、自己顕示や自己実現と取り換えてしまう。かつこの「個人主義」こそ、挑戦し、退治しなければならない代物だ。具体的には世を支配する「自分が除外されることを恐れる文化」に対して、我々は「あなたが自分を失うこと、そしてキリストと他の人に仕えることで、あなたは初めて自分を発見できる」と言わなければならないし、教会を支配する「理性的文化」に対しては、「あなたは信仰なしには、威厳、希望、品性、コミュニティーなど、ほしいものは何も手に入らない」と言わねばならないのだ。

X.対照としてのコミュニティー
現代文化において、我々は対照としてのコミュニティーとなる必要がある。つまりカウンターカルチャーだ。我々のコミュニティーの生き方の質が明確に区別できること、そして美しいことはその証しであり、世における宣教のメインの部分だ。キリストは、キリスト者が互いに愛し合っていることとその質が、世に我々が父から出ていることを示す(ヨハネ17:20−21)と言った。言葉をかえると、宣教はキリスト者が人々に悔い改めを奨めることのみならず、共同体に仕え正義を行うことを抜きにしては前進しない。これはニュービギンの攻撃したバランスだ。リベラルは「正しい社会」を宣教の再定義とし、保守派は「伝道と回心」をキリスト者の働きと見てきたが、多くの宣教的な思想家は、「ことばと行いの両方」がキリスト者の証しだと見る。この種のカウンターカルチャーを担うなら、まずその町を、つまり文化と人々を愛することが含まれ、宣教的な教会は、なによりその都市を楽しみ、気にかけ、そのために祈るのだ。もう一つの傾向は、教会同士、教派同士の一致だ。とげのある問題もあろうが、大きな流れは協力的であるべきだ。この「宣教的」という共通土壌に立つことは健全であり、センターチャーチの神学的ビジョンにマッチする。そのときはじめて我々は、この「宣教的教会」という言葉を臆せず語ることができるのではないだろうか。

Y.「宣教的教会」を中心に置く
「宣教的教会」の定義はそれぞれに違い、互いに矛盾がある。この会話の当事者は、他者は間違っており自分は正しいと思っている。かつ、センターチャーチを正しく機能させるためには、この「宣教的教会」の定義に関する心配事を解決しておく必要がある。それは、@もっと包括的であるべきこと。A特定の形態に縛り付けられている問題。B福音に対する理解不足、の3点だ。

@「もっと包括的であるべき問題」について
「宣教的」ということばが「伝道的」に置き換えられるとすれば、その理解は幅が狭すぎる。宣教的教会は、「伝道熱心な教会」以上のものだ。「この教会の礼拝は宣教的」と言うとき、それはその文化におけるノンクリスチャンに対して、福音に生きるクリスチャンを指し示しつつ、チャレンジを与える礼拝だという意味だ。「この人々は宣教的だ」と言うとき、それは彼らが外に向いており、それゆえに地域の必要に対して敏感であり、かつ同情心を持って応じようとする人々だということを表す。「宣教的教会」は、福音をどう文脈化するかを知っており、自分たちの周りの社会の物語に対してアピールすることに慎重かつチャレンジングだ。そしてそこにいる人々のキャラや生き方が魅力的だから、「宣教的教会」には常にアウトサイダーがいる。そして彼ら自身コミュニティーに入り込み、その中でキリスト信仰が育まれ、探求されていくのだ。

A「特定の形態に縛り付けられている問題」について
「宣教的であるためには、教会は魅力的である以上に受肉的であるべきだ」とよく言われる。広い意味では正しい発言だ。が、たとえ「魅力的」ゆえに多くの人を集め「イエスは主だ」と説教で語ったとしても、彼らは言語的にも歴史的にも理解できない人たちであり、ゆえに我々は福音を具現化する必要がある、だから受肉的であれというのだ。一方でフィッチは「宣教的であることは、時間を使って教会の外でミニストリーをし、隣人の中に住んで、彼らが何者で何をする人たちかを学び、彼らが霊的に(またそれ以外に)何を必要としているかを知ることだ」という。これと「魅力的な教会」は相矛盾する。フィッチに沿って考えると、宣教的な教会は大きくてはダメだ、小さくて伝統的な教会もダメだとなる。大教会は毎週の礼拝と説教に重きを置くからだ。この考えだと、「パートタイムの牧師やリーダーがいる小さめのハウスチャーチがいい」となり、これらの中型ハウスチャーチを集めたネットワークがあって、多摩に大規模で「魅力的な」大集会を開くのがいいということになる。フロスト、ヒルシュはこのモデルについてこう言っている。
『多くの新興の教会は、あえて小さな教会を目指そうとしている。それは新約聖書の初代教会と宣教の再現を意味する。家族単位で、多様性に富み、組織的でなく、生活主導型で、宣教的で、関係重視の信仰共同体だのことだ。』と。しかし、これは「宣教的教会」のあまりに固まった考え方だ。

ティムケラーは、10年ほど、小さな町の小さな群れ(労働者中心)を牧会した。その教会はハウスチャーチが意図して持とうとしていた要素をすべて持っていた。新約の教会の多くがそうであったように、大家族からなる「オイコス」を求めた。そして宣教は形式的でなく、関係性と有機性を持つべきと考えた。たしかに中間的なサイズのグループは本当のオイコスではなかった。また彼ら(ティムケラーの牧会する信徒たち)には物理的に地域の人々を知る「方法」はなかった。しかし、それにもかかわらず、彼らは近くに住み、引っ越しもめったに無く、朝から晩まで顔を突き合わせ、礼拝以外の時間もまさに共同体の一員だった(大草原の小さな家のように)。この多重の関係から、外へのアウトリーチ、牧会的ケア、フォロー、共同体へのサービスは、どんどん有機的に発展していった。つまり小さな町の小さな教会は、一般的にこのような互いの地域との関係性があり、宣教的教会求めている「共同体」に最初から囲まれているのだ。その後、ティムケラーはマンハッタンに移り住んですでに20年だが、そこでの教会は、機動力と、収入があり、そのインフラを使って人々は学び、ミニストリーを行い、大きなプログラムに携わっている。ティムケラーの結論はこうだ。
大小の教会については両方に、伝道の実の熟する「季節」がある。伝統的な教会の多くは、信徒を壁の中に納め、外のクリスチャンを支えたりネットワークにつながったりしない。しかし、ティムケラーの経験からすると、都市の大きな教会は、教会に行っていないノンクリスチャンにアプローチするのに効果的だ。大きいか小さいか、セル中心か中規模で共同体中心かなど「形式」を問うことは実は意味がなく、それらは教会の実りにとって、またノンクリスチャンへのアウトリーチにとって、本質的な良し悪しを決める要素ではない。これは最終的な分析だ。なぜなら、大は大、小は小で、違う強さと弱さ、限界と可能性があるからだ。小さいなら有機的でシンプルな有機的教会になるだろうし、大なら組織的かつ魅力的な教会になるだろう。

では、宣教的教会の「モデル」は示せるのか?皆、教会をつくるうえで手本になるようなものが欲しいわけだが、そういったものはないというのが結論だ。では「効果的な」宣教的教会とは何か?そんなものはあるのか?その特徴についても、すべてのサイズにありうるし、ないとも言える。すべてのタイプの教会がこの特徴を、喜んで受け入れるかもしれないし、逆に抵抗するかもしれないから。それも全然違う形で。すべての種類が成功と失敗の可能性を秘めている。従って、「宣教的教会は小規模なハウスチャーチ」と言うのは極めて近視眼的だ。

B「福音に対する理解不足」について
すべての教会が「福音」という語を用いるが、その意味するところは皆違っており、これは深刻な問題だ。が、「宣教的」を語るとき、それが共同体的、互恵的と言うのは正しい。神のあがないは、最終的に世を新しくする、新天新地の登場を意味する。だから神が出て来られたのは、赦しと救いのためだけでなく、罪がぶち壊したすべての被造物を、すべてにおいて回復するためでもあった。しかし、ある人々は、神の救いの計画から、事実上人間の悔い改めをとりのぞき、そこに注意を払わない。理由は、多くの人々が、罪と救いを再定義し、「横のつながりの協力関係を表すことば」としているからだ。彼らは、「罪とは主に共同体を壊す自己中心、プライド、貪欲、暴力のことだ」とする。そうなると、キリストのあがないは主に「我々に害を及ぼす世の悪の力を打ち負かすこと」となり、このあがないに対する聖霊の働きは、「人々の間のバリアをとりのぞき、平等主義と相互主義を実践すること」となる。最終的にキリスト者になるとは、「悔い改めと信仰により、神と和解すること」ではなく、「世の平和と正義のために働く新しい共同体に加わること」となる。罪に関する古典的な教義、「神のきよさに対抗し、それゆえに我々は神の怒りを引き起こしたが、キリストはその怒りをなだめ、私たちの罪を担い、そこに偉大な交換が生じた。それは我々の罪とキリストのきよさの交換だった」は拒否される。それはそれがあまりに個人的だからだ。しかしこれが、実は教会が「宣教的」になれない理由となっている。もちろん罪は、我々の共同体に破壊的な作用をするし、キリストのあがないは、確かに結果的に被造物を回復する。しかしこれらの伝統的な「罪とあがないの教義」が無視されると、共同体は個人の悔い改めや信仰、回心を考えなくなるのだ。個人のことと社会のこと。「個人のことのみならず、それに加えて」が正しい順番で、どちらかを無視せよとは誰も言っていない。しかし個人と社会の両ファクターがあたかも対立項目とされ、その結果個人が除外されてしまうことが多いのだ。この「教義に対する考え方」はローカルチャーチにおける「宣教的」に対するいろいろな違いを作って来た。

「個人のことのみならず、それに加えて」の正しい順番が無視されて、「罪とあがないの教義」が語られなくなると、どういうことが起こるのか?その時、罪の持つ攻撃性、深み、破壊力を福音は表し損ね、それゆえに福音の持つ槍の鋭さをも見失うこととなる。恵みと行いの区別がうつろになる。つまりキリストを自分の救い主としてあがめることと、自分自身の救いのためにキリストを利用することの区別がである。生活を変える力を生み出すのは、この区別を理解し、それを適用することなのだ。自分は伝統的な、道徳的な、良い生活をしているから救われた、あるいは世の必要に応じた犠牲的なサービスをする生活をしているゆえに救われた、あるいは神に受け入れられていると信じるなら、彼らはそれまで同様、自信がなく、批判を受け入れることもできず、またそれを正しく受け取れない人を見てもその人たちを低く見、神の愛も分からず、キリストに在る自分のアイデンティティーも知らないままだ。

聖書的福音は、人々に自分の中の「危険物」を神の聖なる光の中に見させ、と同時に、キリストの高価な犠牲を思い起こさせる。つまり我々が負うべき罰を負ってくださった。もしこの部分が、福音の提示の中でミュートされるなら、我々を救ってくださったイエスの驚くべき愛の不思議さを感じる感性までミュートすることになる。カーソンの言うことは極めて重要だ。彼は言う。罪のあがないには、大いに協力的、共同体的、横方向の局面がある。これらの聖書的概念は深く、広く、またなかなか到達できない。しかしこの横方向の局面をもっと強調するために伝統的な恵みの教義を否定するなら、結果は破壊的な程にアンバランスになるだろう。古典的プロテスタントの福音理解は、「神はきよく我々はその怒りの下にある。しかしイエスがその怒りとのろいと罰のなかに生きてくださった。我々が悔い改め、イエスを信じるなら、赦しとキリストの義の中に入れられる」というもの。これは神の恵みを恵みのままに置いておかず、そこに電気を流し、キリスト者を、義を行う者へとかきたてる。つまり横の方向の福音を遂行せずにおれなくなるのだ。キリスト者の義に対する欲求は、福音をつかむことによって変容されたアイデンティティーから来る。それは、行いでなく信仰のみによって救われることを唱える福音である。

Z.宣教的教会のしるし
教会は率直に古典的な福音の教義を説教し、教え、それでもなお、宣教的でありうるとティムケラーは考える。つまり、それでもいわゆる現代文化と対峙し、私たちの社会にいるまだ信仰を持っていない人たちを弟子化することが可能なのだ。ではどうやってそれをするのか?5つの方法がある。@宣教的教会が、もし、いわゆる文化に対峙することをミニストリーとするなら、偶像に立ち向かう必要がある。A宣教的教会は、すべてのクリスチャンは、それぞれに地域において宣教に遣わされていることを認め、コミットしなければならない。B宣教的教会は、みずからを「しもべ共同体」であることを理解しなければならない。つまり教会員自身が、共通の善を求めるカウンターカルチャーであるということだ。C宣教的教会は、地域におけるキリスト者の協力をできる限り図らなければならない。D宣教的教会は、ある意味で多孔質(穴だらけで通気性がよい)でなければならない。この「多孔質」とはこういう意味合いだ。
未信者、求道者を、教会生活やミニストリーのあらゆる局面、具体的には礼拝、スモールグループ、近隣の人々への奉仕活動に巻き込むのである。そのwelcome度を見て、彼らは福音が我々の生活にあふれていることを知る。文化脈は、文脈化されながらも霊的に別物であると知った時彼らに感動が起こる、そのための舞台である。また宣教的な教会は、福音的なプログラムや担当部署にアウトリーチを頼るのでなく、各人の教会生活そのものが未信者へのプレゼンテーションにreadyになっている必要がある。

[.人々を宣教的生活に整える
なかでもミニストリーにとって大切なのは、信徒を世にあるミニストリーに対して弟子訓練をしていくことだ。宣教的に生活する人々のしるしは何か?ボルガーはこう言っている。「彼らは教会外のコミュニティーとの第一の接点を、教会のサービスに置いていないことだ」と。信徒をこのようにミニストリーに巻き込み「説教と教育による信徒ミニストリー」を展開することが大切だとティムケラーは言う。

\.非正規宣教師(informal missionaries)
ジョンストットが言うように、キリスト者は歴史的に「closedで、福音的で、修道院的なコミュニティーにこもる」という傾向があるが、初代教会においては違っており、ギリシア語のエバンゲリゾーは福音を伝道すること。イエスがどんな素晴らしいことをしたかを人々に伝えることであり、「使徒の働き」では文字通りすべての人がそれをした。「知恵を尽くして互いに教え忠告し合い」(コロサイ3:16)、「あなたがたは信者の模範となったのです」(Tテサ1:6−10)、「日々互いに励まし合い」(ヘブ3:13)とある通りだ。初代教会の爆発的な成長は、訓練された説教者、伝道者でなく、一般のクリスチャンの、それぞれの関係性の中で交わされる非正規な会話によってもたらされたと言える。中でも最も強い関係性は家庭にあった。血縁、奴隷、雇用関係、友人・・・。誰かがキリスト者になったら、その影響を一番被るのがその家族だった。ルデヤから家族へ(使徒16:15)、看守から家族へ(使徒16:32)と。また家庭は、指示や教育の場として用いられた。(「家や宮で日々宣べ伝えた」(使徒5:42))
また友人や隣人に福音を計画的にプレゼンする場でもあった。コルネリオの家(使徒16:22)がそうだ。家の中でだれが信じるかで、その福音の動きや、働きが変わるとグリーンは分析する。家族に次いで大切なのが友達関係による福音の伝搬だ。ヨハネ1章で、ピリポは自分の友人ナタナエルにイエスに関する知識を伝えている。

].信徒ミニストリーの原動力
では信徒全員により福音伝道のミニストリーは、今の時代どのような形になるのか。ベースは次の通りだ。
@有機的:たまたま、教会で組織されたプログラムとは違うところで始まるが、その過程で教会のプログラムを利用する。A関係的:非正規の個人的な関係という文脈でスタートする。Bみことばを展開する:祈り心をもって人々の生活の中に、聖書のみことばを運んでいく。C能動的(not 受動的):各人がミニストリーのプロデューサー(not 単なるユーザー)である意識と責任感をもつことが必要。

ティムケラーの経験では、20−30%の教会の人たちは、この種の有機的、関係的ミニストリーに組み込まれており、その力強さは、教会全体をパワーアップし伝道的にする役目を果たす。信徒牧師は、カウンセリングし、励まし、指導し、弟子化し、信徒にも未信者にも証しをする。彼らは自分の生活を他の人たちの生活にかかわらせていくことによって、信仰と恵みの内に成長していこうとする。まずこの信徒牧師のケアを受けた人たちの一部が、このミニストリーにいることで、教会は質的にも量的にも成長する。また彼らは教会リーダーによって整えられ、支えられているので、このミニストリーに巻き込まれていること自体に快適さを感じ、教会に対するオーナーシップを感じるようになる。こうして彼らは、教会を、「自分たちの教会」と感じ、任命されたリーダーと同じく、無償でよろこんで時間も賜物も財も供出するようになる。

まさに、キリスト教の教育とカウンセリングなくして、みことばの説教と礼典の執行なくして、また霊の家族としての生活面でのサポートなくして、管理と責任の労なくして、更には教会生活と弟子たちの働きを抜きにして、信徒が信徒牧師として建て上げられていくことはないのである。しかし信徒ミニストリーが起こってくるなら、そのことでこれらの「機能」が質量ともに起こって来るのである。人的、財政的資源は、どこから起こって来て、教会全体を支えるようになるのかという質問に対する答えは、それは全教会員による福音伝道ミニストリーから起こって来るのである。

Ⅺ.小さなステップアップの連続から宣教的福音伝道へ
信徒ミニストリーの背景には、次の前提があることも知っておく必要がある。つまり、多くの人たちが、小さなステップアップを通して、不信仰から信仰へと変えられていくということだ。
私たちは福音の性質について、古典的な教えを保っている。つまりキリスト者になるとは、信仰によってキリストと一つになること。そのことで、キリストの救いが我々のものとなり、聖霊が我々に入り、キリストの似姿へと変えられていくと。あなたはキリスト教徒か?信仰においてキリストと一つか?の質問に対する答えは、YesかNoかのいずれかしかない。それはキリスト教徒であることは、神とともに立っていることだから。だが我々は、この「キリストともにある」ということについては、一回切りの出来事でなくプロセスがあることを知っている。それは、信仰に少しずつ近づくことを、我々は小さな決心連続として為していくからだ。人々は、神とは誰で、罪とは何で、イエスは誰で、悔い改めや信仰とは何なのかという知識を、最初から持っているわけではない。誰も来会即入信とはならないだけの障壁や別の信念を持っているからだ。従いまず人々はコミュニティーに迎え入れられ、十分に時間をかけて福音について複数回いろんな形で聞く必要がある。コミュニティーでこれを経験すると、未信者は、神の性質、罪、恵みを理解するようになる。多くの障害や反対意見があってもこのプロセスを通して答えが与えられる。なぜならこの時彼らはすでにキリスト者たちと現在進行形で付き合う「うちわの人」となっており、彼らはすでにキリスト者のイメージを持ち、また信仰が実生活でどのように具現化・肉付けされるのかを、見ることができるからだ。

このプロセスは次の通りだ。@気づき(私はわかった):福音と律法主義の違いを知り、小さなステップを踏み出す。「キリスト者でかつ理性的というのもありだ」「聖書の言うことで、わたしに当てはまることが意外と多い」など。A関係性(私にはそれが必要だ):今は宗教と無宗教の両方のとりこであることと、福音が働く時どんな変容があるのかを知るようになる。そして小さなステップを踏み出す。「教会にいる人たちはものすごくまともだ」「イエスがキーのようだ。彼はいったい誰なんだ」など。B信頼性(それが真理なので私に必要だ):もし福音が合理的でなければ、彼らは試練に遭った時それに耐える力を持たなかっただろう。そこで小さなステップが起こる。「聖書が歴史的に信頼できるものであることが分かった」「超自然は科学によって否定(逆証明)できない」「イエスは本当に神だ」など。C体験(それがどういうものかわかる):どこかで信仰には抵抗しつつも、何らかのグループの中に身を置き、あるいは奉仕ミニストリーに参加し、キリスト教を体験し、クリスチャンのように話すようになる。Dコミット(私はそれでいく):人によってはすでに悔い改めが起こっているが、それに気づかず、後でそのことを発見するのだ。そして小さなステップを踏む。「私は罪びとだ」「わたしには救い主が必要だ」「私はイエスを信じ、イエスのために生きる」など。E補強(今得たり):福音がクリアーになり、リアルになる。

Ⅻ.信徒ミニストリーの原動力をつくる
霊的原動力は作り出したりコントロールしたりできないが、それが生じるためにはある程度の環境が求められる。そのために必要なのは少なくとも次の3つだ。@関係性の整った信徒。Aパスターのサポート。B安全な場所。

@「関係性の整った信徒」について
まず信徒自身が、文脈化された福音の手紙でなければならない。「私の推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。」(Tコリ3:2)とある通りだ。言葉を変えると、まず私たちが周囲の人たちと似ていること、しかし同時に深いところで違っていること。そして彼らに似ていない時に、我々はインパクトを持つのだ。従いまずクリスチャンは、近隣の人たちと、食事、服装、ことば、一般的な見た目、仕事と余暇のバランス、娯楽や文化的アクティビティー、地域社会との関わりなどで、似ていなければならない。つまり似ていることで安心させ、彼らはこのことで、信仰についての議論に心を開くのだ。なぜなら彼らは、信者たちも自分たちの世界の住人であり自分たちの世界を理解してくれる人たちだと気づくからである。結果的にそれによって、彼らがもし信じたらどのような人になれるかを見せてあげることができる。つまり、もしウオールストリートで働く未信者の男性が、同じくファイナンス分野で働くクリスチャン男性と出会ったとする。それも同年代と限らず熟達した先輩ならもっと素晴らしいかもしれない。また年いった画家の婦人が同じ世代のクリスチャン女性アーティストに出会うもの素晴らしい。

2つ目に、クリスチャンは、近隣の人たちと違っていないとだめだ。基本的に初代教会のクリスチャンたちは驚くほどに近隣の人たちと違っていたが、今の私たちもこれと同じだ。どう違うべきか?まず高潔であるべきだ。良心的で、正直で、透明性があり公平でなければならない。気前が良く、人を雇っているなら儲けは極力、客や従業員に還元すべきだ。市民としては博愛主義。特に近所の人や、貧しい人を家に招いてもてなそう。同情心も旺盛であるべきで、逆に利己主義や無慈悲なところが出ないようにしたい。これに加えて、クリスチャンは、カウンターカルチャーの価値観を実践して見せなければならない。信徒は貞節を保ち、聖書の言う性道徳の中を一貫して歩むべきだ。結婚以外のセックスはダメ。この道徳は教会外の人も頭では知っているが、もしこの分野に一貫性がないということになれば、簡単にクリスチャンとしての信頼を失ってしまう。今の時代、強いキリスト教の信念をもって周辺文化から距離を置いて正しく歩む人は少ない。また、ノンクリスチャンは、信徒が不運・災難に対して、どう対処しているかも見ている。失敗や失望にぶちあたっても穏やかでいる姿は決定的な証しとなる。最後にあなたが公正かどうかも彼らは見ている。つまり、共同体において「公共の善」を求めているかどうかである。

3つ目に、他の人たちと似ている、似ていないということ以外に、キリスト者は、他の人たちにかかわって行くべきだ。また文脈化された信徒たちの間では、宣教とは日々の生活上のことなのだ。つまり表面的でない関係を近隣の人たち(同僚含む)と築いていくことだ。それをするための実際的なやり方は:
1)隣人と関わる
近所を規則的に歩き、近隣の人と出会う。同じところに同じ時間に行く。八百屋、散髪、コーヒーなど。同じ建物の人を知るために住民組合に参加する。アマのスポーツの会。近所のボランティア(募金、掃除)。ママ友等。
2)同僚、友人と関わる
レクリエーションを企画する(スポーツ観戦、観劇、美術館回り)。スポーツリーグに招く。ジムに誘う。夜の映画に誘う。レストランに誘う。自宅のディナーに誘う。新しい店を探す。旅に出る等。本などのディスカッショングループに誘う(ノンクリ中心)
関わる目的は、自分を信徒として知ってもらうためだ。あえてそうしないで関わるのを、「ブレンド・イン・アプローチ」という。多くのクリスチャンは、ノンクリスチャンの社会に住み、自分たちがクリスチャンであることをあえて友人に明かさない。彼らの基本的な思いは、「受け入れられること」であり、違いを知られるのを避けようとする。しかしこのアプローチは、世との関係において本人の信仰を高めるチャンスを逸するだけでなく、逆に障害を及ぼす危険すらある。逆もまた真なりで、教会外の人と関係性をつくりながら自分が信徒であることをあえて開示しないことは事実可能なのだ。人々が失われていること、また信仰の会話に持ち込むことが可能であると知りつつ、ノンクリスチャンとの関係が表面的で終わっている状態だが、これをティムケラーは「クリスチャンの泡沫的アプローチ」と呼ぶ。この場合信徒は、自分の重要な関係性を、クリスチャンとしてなすべきワークの外に置いてしまっているわけだが、この場合彼らは、未信者から学んだり、彼らを評価したり、認めたり、彼らに仕えたりする機会を探すこともなく、未信者はいつまでも教会の外に置かれ、教会がどれほど彼らのことを気にかけているかを知らないままとなる。

40年前、ゲイの人のことは知っていたが、皆がそのことについて注意深く口をつぐんでいたため、我々はゲイのことを知っているということさえ互いに知らなかった。結果的に我々はステレオタイプの知り方しかしないままで来た。今日はほとんどの若い人が、ゲイである人を一人は知っている。だからステレオタイプの知り方はもうしなくなった。都市の無神論者たちは、そのほとんどがクリスチャンの友人を持っていながら、その事を知らない。それは我々が、クリスチャンとして公に見られることを恐れているからだ。その意味でクリスチャンは、40年前のゲイの人たちと似ている。そして人々がキリスト者を、漫画チックに、ステレオタイプにしか知らないということが普通に起こりつつあり、それは実際に付き合っているクリちゃんが自分を明かさないからだ。無神論者が信じるようになるために必要なことは、議論ではなく、理性的で、賞賛に値する同僚を観察し、彼らをこのようにしている基本的な要因が信仰にあることを知ることなのだ。尊敬するクリスチャンの友人をあなたが持つことができるとしたら、それはあなたの信仰をも確かなものとするはずだ。

これらの3つの要素、似ている、似ていない、関係性は、ティムケラーが「クリスチャンの関係性の完全(integrity)」と呼んでいるものの基礎となる。クリスチャンの「関係性の完全」が福音伝道や宣教に必要な理由は、多くの教会が、福音伝道のメインは情報の伝達によると勘違いしているが、実際はそうでなく、個人的な関係によるものだからだ。初期のキリスト者は、敵意あふれる時代にも拘らず、爆発的に伸びた。それも10年で40%の増加を見たその理由は、魅力的だったからに他ならない。クレイダーは、「人々はそれに夢中になり、まるで磁石のように引き付けられた」と言う。またキリスト者の、弱く貧しい人に対する心遣い、迫害の中にあっても高潔なこと、経済的に分かち合うこと、敵であっても犠牲的な愛を注ぐこと、高次元な共同生活などが、未信者を福音に結び付けたのだ。いったん共同体の中に入れば、彼らはこのような共同体の源である福音についてオープンに語った。現代の都市生活者の状況は、ローマ時代のような危機的な状況はなく、疫病も、社会的カオスも暴力もない。しかし彼らはこれまでどの時代も経験したこともないほどの、厳しく、競争的な環境に置かれている。今こそ、この人たちに対し、私たちの生活の中にある愛と、希望と、栄光を伝えて行く必要があるのだ。が、なぜ信者の中に、「関係性の完全」が見られないのか。それは人々が「ブレンド状態」にあり、勇気がないからだ。「どうせ影響力はないし」と、何か他と違うことをすることによるマイナス効果だけを心配するのだ。一方で、この「バブルモード」の人たちは、周囲に対する感情面、社会面、経済面、物理面と、あらゆる投資に消極的だ。驚いたことに実は、インターネットがこれに拍車をかけている。彼らは他の都市のクリスチャンの友人に自由にアクセスする一方で、物理的に近いところに住んでいる人々を、無意識のうちに簡単に無視してしまう。これは我々が人々に感情的に投資することにストップをかけている要素の一つだ。

Aパスターのサポート
「信徒全員による福音伝道ミニストリー」を進める上でのパスターの働きについてだが、何をするときもそうだが、ポスターと他のチャーチリーダーは、信徒ミニストリーの大切さを知り、そのために人々を訓練することを意識する必要がある。彼らは信徒牧師の生活にまで個人的にかかわって行く必要がある。たとえ信徒が「関係性の完全」を欠いていても(それはモチベーション?同情心?能力、知識などいろんな局面が考えられるが)、それはその信徒との強い牧会的コネクションで克服できることが多い。それはフォーマルなトレーニングではなく、逆にインフォ―マルな教え、サポート、アドバイスであることが多い。
〇パスターは、まずどう祈るか、どう語るかの両方についてのモデルとなる必要がある。それにより、勇気と同情心と人々に対する責任感を教え、彼らに自分の友人たちにリーチアウトするよう励ますのだ。
〇パスターは、今後に続く「クリスチャンの関係性の完全」のモデルになる必要がある。
〇さらにパスター自身が、実際的でシンプルな(とくに福音伝道の関係性ミニストリーについての)ビジョンを維持することは大切だ。つまり友人や同僚にアウトリーチするのに、一度の会話で福音の全容を語る必要はない。昔の伝道プログラムはこれをゴールとしたが、今の時代の友人伝道は、もっと自然であるべきだ。この有機的なリーチアウトの方法につき信徒は、パスターから具体的にインプットされ続ける必要がある。
〇またパスターにとって大切なのは、信徒たちが彼らの友人とディスカッションする中で出会った問題や質問に答えていくことだ。「どうしてあんなひどいことが起こるのか?」などの質問に助け舟を出し、素早く切り返せるようにサポートするのだ。
〇またパスターは、彼らが友人とシェアできる無料かローコストの教材を提供する必要がある。

おそらくパスターにとって、いろいろな働きの中で最も大切なことは、福音そのものを通じて、神学的、動機的に、信徒伝道の「福音的基礎作り」をしてあげることであり、これは教育、説教、個人的な牧会的サポートなど、いろいろな形で行われる必要がある。その「福音的な基礎作り」とは、福音はあなたに謙遜を与えるということを教えることだ。道徳的なクリスチャンは、「私は正しい。彼らは間違っている。私はこれを語ることを喜んでいる」という態度で福音伝道を進めるが、福音は全く逆で、ノンクリスチャンの人達が、私たちなんかよりよほどまともでよい人たちであることを我々に気付かせてくれる。例えばあるヒンドゥーの友人は、ティムケラーの知っているすべての親たちの中で、おそらく子どもたちに対しては最高の親だと彼は言う。福音は謙遜に他者を評価する基礎を与えてくる。そしてこの基礎があるからこそ我々は魅力的な関係を築くことができるのだ。

またパスターは、福音がどれほどノンクリスチャンに対する希望を与えるかについても、人々に示す必要がある。「あいつは絶対救われない」という言葉をよく聞くが、我々は一旦福音を理解すると、それが間違いであることを知るようになる。救いはもともと誰にとっても「受けるに値しない賜物」であり、それゆえどれほど神から離れていると思える人であっても、すべての人に希望があるのだ。従い、私たち心の態度は、「わたしがクリスチャン?私みたいなものが神の子とされるなんて誰が想像したでしょう。しかし今や私はそれなのだ。これこそが不思議であり奇跡です」であるべきだ。

最後にパスターは、福音がどれほど我々に福音伝道の「勇気」を与えるのかも説明しなければならない。私たちがどこかの時点ですくんでしまってイエスと福音を語らなくなるとしたら、その原因は恐怖だ。人がどう思うかという思いに我々は常に縛られている。が、福音は、我々をその「評価の縛り」から解放してくれる。従い我々は知識不足、経験不足、口下手を悩む必要はない。心を開くのは、我々の雄弁でなく神の恵みによるからだ。

パスターが、受け身の信徒を勇敢で恵みあふれた信徒牧師に変えるとしたら、その最大のバックアップ材料は、パスター自身の信心深さである。パスターが、その謙遜、愛、喜び、知性において際立っているなら、彼らはそれに魅力を感じ、信頼し、その人から学ぼうとするだろう。パスターはなにも最高の説教家である必要はない。ただ神の愛と、喜びと、知性に満たされていたら、その説教が飽きられることはないからだ。パスターは最高のオーガナイザー、カリスマチックなリーダーである必要はない。ただきよさにおいて確かなら、人々はあなたに従うだろう。そしてダイナミックで、よく訓練された、かつ祈りにあふれた生活があるなら、それこそがあなたの出来る最高の実際的なミニストリーへの貢献となるだろう。

B安全な場所
信徒による関係性や、非公式なアウトリーチによって福音伝道の原動力が起こされることは確かだ。が、にもかかわらず、信徒たちは、もしノンクリスチャンの人たちが、教会や福音にもっと直に接することができるようなイベント、集会、ミーティングなど、いわゆる「安全な場所」が教会にあったら、もっと勇気づけられるし、いろいろな指針も受けることができると考えている。ではどういった場所が、ノンクリスチャンにとって、「安全な場所」なのか。それは、「次はこう」というアジェンダ的な指令があるような場所でなく、その友人を一番知っている信徒牧師が、その人に伝えたいことを伝えたいかたちで伝えていく、そのことをバックアップできる態勢であり、それに対して教会全体が意思統一してフォローできる環境を指している。

福音伝道はまず自然であるべきだ。もともと友人同士は、自分の心を互いに分かち合い、互いにベストと思うことをする。福音伝道は、そこにプライドや恐れや悲観論があって我々の信仰を覆い隠してしまわない限り、友情の中で有機的になされていくものだ。我々は、信徒が自分の友人たちに、自分たちが現実をどう見ているかを自然に語り掛けることができるように助けるべきだ。この福音を動機とした力が信徒らの生活にあふれているなら、それを見て彼らはまるで磁石に引き付けられたかのように現れ、また彼らが信仰に至るように助けてあげることもできる。総じて、ノンクリスチャンが招かれて「安全」といえる場所があるとすれば、それは、信仰のない人をも温かく受け入れる態勢が整ったコミュニティーであり、文化的に外れていないコミュニティーであり、信徒牧師にプライオリティーを置くパスターの牧するコミュニティーであり、そしてバランスよく全体的ミニストリーを営んでいる教会のことなのではないだろうか。

※宣教的教会(p251-289)のまとめ
今回のセンターチャーチのこの章を読んで、信徒ミニストリーの大切さとそこでパスターに求められている責任の大きさ、幅広さに、背筋がピーンと伸びる思いがした。しかし(12)Aの最後、「ダイナミックで、よく訓練された、かつ祈りにあふれた生活があるなら、それこそがあなたの出来る最高の実際的なミニストリーへの貢献となるだろう」の言葉になぐさめを感じた。ああ、スーパーマンでなくていいんだと。そして特にこの「ダイナミックな」という言葉が残った。一方、昨日デボーションで読んだ「ですからあなた方に勧めます。わたしに倣う者となって下さい」(Tコリント4:16)とのみことばが、わたしの中でこれとリンクした。「わたしに倣え」という大胆な言葉の直前にパウロは「わたしは死罪に決まった者のようだ」「世界と、み使いと、人々の見世物だ」「キリストのために私は愚かで、弱く、卑しめられている」「ののしられ、迫害され、中傷され・・・この世のくず、あらゆるもののカスだ」とまで言っている。が、この世的にはこのみじめな自分に、キリストの力が現われるのだ。これが福音のダイナミズムであり、ここにあなた方も生きてほしい。だから私に倣いなさいとパウロはここで言っているのだと思う。

先日、東伏見のティラナスホールというクリスチャンの大学生寮でレイマンスクールという学びの場があり、そこで夫婦で「信仰継承」についてお話させて頂いた。初代の宣教師は、「とにかく日本のクリスチャン大学生を訓練できる寮を建て、そこで学生たちと24時間いっしょに過ごす中で彼らをキリストの弟子として育てたい」と終戦直後の1950年にそれをスタートしたわけだが、その時宣教師が奥さんにこう言ったとある本にあった。「これから始まる学生寮から最上級生を送り出すまでは、まず僕たちの人格、つまり僕たちの日常に、福音が受肉しているかどうかが問われるんだ」と。すると奥さんが「つまりガラス張りの生活をするのね」「その通りだ、良くも悪くもね」と。以来ティラナス寮は多くの素晴らしいクリスチャン大学生を輩出してきた。パウロのように、キリストとともに死に、キリストと共に生きる。このダイナミックな、大どんでん返しの生活を日々生きることがパスターとしての最高の務めであり、これが最終的にミニストリーを支えていくのだ、そして宣教的な教会をつくって行くのだと、改めて教えられた。キリストの福音に生きているか、福音が今の自分の生活に受肉しているか。それを問いつつ、この都心ミニストリ―を進めたい。
posted by akky at 19:25| Comment(0) | 読書記録